「家族という名の高難度マルチプレイ」
ソロプレイ前提の人間に、マルチプレイは難しい。
これはゲームの話ではない。
いや、半分くらいはゲームの話でもある。
だが今言いたいのは、もっと現実に即した、しかし同じくらい厄介な問題だ。
家族である。
家族が悪いわけではない。
そこは強調しておく。
悪意があるわけではない。
各自が各自の正しさと都合と生活リズムで動いているだけだ。
ただ、その“各自が普通に動いているだけ”が同時多発すると、処理能力の低い人間は普通に詰む。
そして俺は、その日の午後、かなり詰みかけていた。
父が帰省中。
良子とひな来訪中。
富子は台所。
俺はリビング。
ここまではまだいい。
問題は、全員が**同じ時間帯に、同じ空間で、別方向の用件を発生させる**ことだ。
リビングの人口密度が高い。
会話密度も高い。
生活音まで重なる。
人類はもっと音声チャンネルを減らすべきだと思う。
その時点で、家の中はだいぶうるさかった。
台所では富子が夕飯の準備をしている。
鍋のふたが鳴る音。
包丁の音。
換気扇。
リビングのテレビでは土曜の情報番組。
ひなはテーブルの上で塗り絵。
良子はスマホ片手にそれを見ている。
父は新聞を広げている。
そして俺は、ソファの端で小さくなっていた。
この時点で何も悪くない。
何も起きていない。
だが、何も起きていない状態でこの情報量なのだから、ここから何か一つでも増えるとつらい。
「太郎ー、ちょっとお皿取って」
来た。
第一波。
富子だ。
「どれ」
「上の棚の、白い大きいやつ」
俺は立ち上がる。
この程度はいい。
皿を取るだけだ。
皿に感情はない。
どの皿か明確なら、人は迷わず動ける。
棚を開け、皿を取る。
渡す。
「はい」
「ありがと」
よし。
一件処理。
だがその直後、良子が言う。
「お兄ちゃん、そのついでにコップも取って」
「ついでが雑なんだよ」
「取る位置ほぼ一緒じゃん」
それはそうだ。
悔しいが、それはそうだ。
コップも取る。
ひながその様子を見ながら言う。
「おじさん、きょういっぱいたつね」
「そういう日もある」
「でもいつもより多い」
よく見ているな。
父が新聞をめくりながら言った。
「太郎」
「何」
「この辺のスーパー、前と変わったか」
いきなり話しかけられると困る。
しかも内容が微妙だ。
変わったか。
変わったと言えば変わったし、そこまででもないとも言える。
どのくらいの粒度で返すのが正解だ。
「……少しは」
とりあえずそう返す。
「そうか」
ここで終わると、一往復でしかない。
だが、ここから俺がもう一歩広げるべきか。
店が変わったとか、駐車場が広くなったとか、何か足すか。
考えているうちに、富子が割り込んだ。
「前の店が閉まって、新しいのになったのよ」
「へえ」
富子はこういう時、本当に強い。
会話の中継サーバーとして性能が高い。
だがそれで安心した瞬間、ひなが言う。
「おじさん、クレヨンおちた」
第二波。
床を見ると、たしかに赤いクレヨンがソファの下へ転がっている。
「取れよ自分で」
「手とどかない」
見ると、届かないのは本当らしい。
俺はしゃがみ込んでクレヨンを取る。
「はい」
「ありがと」
また一件処理。
良子がそれを見ながら笑う。
「完全に細かい便利屋じゃん」
「便利屋扱いするな」
「でも便利だよ」
その言い方は、あまりよくない。
よくないが、完全否定もしづらい。
父がそこでぽつりと言った。
「助かってるんだろ」
俺は一瞬だけそっちを見た。
父の声は淡々としていた。
何かを持ち上げるでもなく、ただ事実確認みたいな口調。
だが、その一言が妙に耳に残る。
「……知らん」
結局そんな返ししかできなかった。
良子がすぐ切る。
「何その照れ隠し丸出しの返事」
「違う」
「違わないって」
ひなは会話の流れを半分しかわかっていない顔で、それでも普通に頷く。
「うん。おじさんいるとたすかる」
急にまっすぐ来るな。
こういうのが一番処理に困る。
「……そうかよ」
それでも、以前よりは返せるようになった気がした。
完全に否定して切る、みたいなことはもう少し減っている。
そこへ、玄関の方で物音がした。
「あれ、健太くんじゃない?」
良子が言う。
最悪だ。
俺は心の中で静かに崩れた。
今この家にはすでに
父
母
妹
姪
俺
がいる。
そこへ健太まで加わるのか。
マルチプレイの人数制限を超えている気がする。
案の定、玄関から元気な声が飛んできた。
「おじゃましまーす!」
こいつは本当に、遠慮という概念をどこかへ置いてきている。
「おじゃまします、だろ」
良子が言う。
「言った!」
「勢いが雑」
健太はリビングへ入るなり、父を見て一瞬だけ止まった。
そうか。
健太にとって、父は新規キャラだ。
「だれ?」
そこからか。
ひなが即答する。
「おじいちゃん」
「へえ!」
健太はへえ、で済ませた。
子どもの順応性は雑で早い。
父も少し驚いた顔をしたが、ひな経由でだいたいの状況は把握したらしい。
「近所の子か」
「そう」
「健太」
「健太くん」
「けんたくん」
健太は自分で名乗る時の情報量が足りない。
まあ、子どもはだいたいそうだ。
そこから先の数分は、正直かなりうるさかった。
健太がしゃべる。
ひなが返す。
良子が切る。
富子が台所から指示を飛ばす。
父がたまに短く入る。
俺はその間で皿を運び、テレビの音量を少し下げ、倒れそうなコップを直し、床へ落ちた消しゴムを拾い、誰かに醤油を取れと言われる。
「お兄ちゃん、これ運んで」
「太郎、それ取って」
「おじさん、見て」
「太郎、このリモコン動かん」
「おじさん、けんたが赤つかった」
「太郎、テーブル拭いといて」
多い。
さすがに多い。
「待て待て待て」
思わず口に出た。
「一個ずつ来い」
健太が笑う。
「おじさん処理おちしてる!」
「してない!」
「してるよ」
ひなまで言う。
「うん、ちょっとしてる」
お前ら、そういうところだけ仲いいな。
だが、正直していた。
会話と用件が同時に飛んでくると、俺の中では優先順位の並び替えに数秒かかる。
その数秒を、他人は待ってくれない。
だから俺は、途中からやり方を変えた。
会話を半分捨てる。
雑務へ寄せる。
皿を運ぶ。
テーブルを拭く。
リモコンの電池を入れ直す。
消しゴムを拾う。
足りない箸を追加する。
その方が、まだ確実に役に立つ。
たぶん、それを父も見ていたのだろう。
夕飯の準備がほぼ終わりかけた頃、父が何でもない調子で言った。
「太郎、そういうのは早いな」
俺はテーブルの上のコップを並べながら答える。
「会話よりはな」
父は小さく鼻で笑ったようだった。
「それはわかる」
一瞬だけ、空気が揃った気がした。
たぶん“会話が得意じゃない”という一点では、父も多少の自覚があるのだろう。
だからこそ、その短いやり取りは意外と嫌ではなかった。
良子がそれを見て、すぐに言う。
「何、今の。気まずい者同士の共鳴?」
「うるさい」
「うるさい」
父と俺の返しがかぶった。
一瞬、全員が止まった。
次の瞬間、ひなが吹き出す。
「いっしょ!」
健太も笑う。
「ほんとだ!」
良子は肩を震わせている。
「やだ、今のちょっと面白かったんだけど」
俺は顔をしかめた。
父も少しだけ気まずそうに咳払いをした。
だが、空気はさっきより軽い。
そういう意味では、最悪ではなかった。
---
夕飯が始まる頃には、俺はすでにだいぶ疲れていた。
まだ何も終わっていないのに、終盤みたいな疲れ方である。
食卓には全員が揃い、さっきまでの騒がしさが少しだけ整列した形になった。
健太は結局、夕飯前に帰された。
それでも十分な嵐を残していったが。
父が味噌汁を飲みながら言う。
「賑やかだな」
富子が即答する。
「でしょ」
良子は笑う。
「お兄ちゃんはたぶん今、半分死んでるけど」
「死んでない」
「処理落ちはしてた」
ひなが冷静に補足する。
「ちょっとね」
「お前まで乗るな」
だが、さっきの俺はたしかに少し危なかった。
それでも全部を放り出さずに回したのだから、個人的にはわりと健闘した方だと思う。
父がそこで、何でもない調子で言った。
「でも、ちゃんと全部やってたな」
俺は箸を持つ手を少し止めた。
「……何が」
「皿とか、リモコンとか、そういうの」
言われると照れる。
だがそこで露骨に否定するほど若くもない。
「まあ、そのくらいは」
「助かるわよ」
富子が続ける。
「こういう時、人手あるとほんと違うから」
良子も頷く。
「前よりちゃんと戦力だよね」
「戦力って言うな」
「でもそうじゃん」
ひなが最後に、とどめみたいに言った。
「きょうのおじさん、ずっといたね」
その褒め方、ほんと独特だな。
だが、少し考えてみれば、ひなにとってそれはかなり大きな評価なのだろう。
途中で逃げなかった。
部屋へ引っ込まなかった。
うるさい空間に、ちゃんと最後までいた。
それが“ずっといたね”になる。
「……いたな」
俺は小さくそう返した。
ひなが満足そうに頷く。
「うん」
そのやり取りだけで、今日の処理落ちも少し報われた気がした。
---
夜、自室へ戻る。
ドアを閉める。
静けさが一気に落ちてくる。
「はあ……」
深く息を吐く。
疲れた。
とにかく疲れた。
何がそんなに疲れるのかと言われると難しい。
大きな事件はない。
怒鳴り合いもない。
ただ、用件と会話が少しずつ、絶えず、いろんな方向から飛んでくる。
その処理だけで人はわりと消耗する。
「高難度マルチプレイかよ……」
独り言が出る。
ソロ前提で生きている人間に、いきなり家族フルパーティは厳しい。
しかも全員が悪意なく自分の行動を取っているから、余計に断りづらい。
それでも、今日は完全敗北ではなかった。
処理落ちはした。
雑務へ逃げもした。
だが、最後までいた。
それは事実だ。
「……ずっといた、ねえ」
ひなの言葉を思い出す。
褒め言葉としてはだいぶ地味だ。
だが今日に限っては、あれ以上ないくらい正確でもあった。
ずっといた。
その場に。
その騒がしさの中に。
俺はベッドへ倒れ込み、腕で目を覆った。
家族というのは難しい。
難しいが、たまにこうして“いること”そのものに意味が出る瞬間がある。
それを素直に認めるのはまだ少し恥ずかしいが、完全否定もしづらくなってきた。
そこがまた、少しだけ面倒だった。
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