「近くにいる?いや、まさかな」
世の中には、知らない方が幸せなことがある。
これはべつに深い人生訓でも何でもなく、わりと日常レベルの話だ。
コンビニの揚げ物がいつ揚がったかとか。
推しキャラの人気投票順位とか。
無料十連の排出率の実数とか。
そういう、知ったところで心が少しだけ荒む情報は意外と多い。
そして今、俺の目の前にある“知ったらたぶん少し面倒なこと”は、
**にぼし姫と風間凛、同一人物説**
だった。
嫌すぎる。
言葉にするとより嫌だ。
もちろん、証拠はない。
いや、ないと言い切るのも違う。
状況証拠は妙にある。
あるのだが、どれも単体では弱い。
妙にコンビニの現場感がある発言。
俺の買い物タイミングと噛み合うメッセージ。
言い回しの温度。
短く刺す感じ。
そして、たまに見える“わかる側”の気配。
だが、それらを全部並べたところで、確定ではない。
しかも確定させたところで、たぶんろくなことにならない。
だから俺は、しばらくのあいだ“気づきかけているが気づかないふりをする”という、あまり健康的ではない精神状態で日々を過ごしていた。
その夜もそうだった。
自室。
薄暗い。
エアコンの音。
ノートPCのモニター。
いつもの巡回態勢。
掲示板を流し見し、動画を流し、ついでにチャットルームを開く。
白狼77と、にぼし姫がいる。
この時点で、俺の中の緊張は少しだけ上がる。
以前なら、にぼし姫は単に辛辣で妙に気の合うネットの知り合いだった。
今は違う。
“もしかすると近所のコンビニ店員かもしれない人”という余計な情報が、常に薄く重なっている。
白狼77が先に投げてきた。
『今日レジでさ』
ほら来た。
こいつも最近、この手の話題を妙に振るようになった。
明らかに面白がっている。
外野はいつだって無責任だ。
『店員がめっちゃ塩で逆に良かったわ』
『無駄に愛想いいより楽』
にぼし姫がすぐ返す。
『無駄に愛想よくされるのが苦手な人っていますよね』
この“いますよね”が、最近の俺にはもう怪しく聞こえて仕方がない。
『いるだろ』
と俺は返す。
『太郎とか典型じゃね』
と白狼77。
『うるさい』
すぐに返した。
だが、否定しきれないのが腹立たしい。
『でも無言も困る』
と俺が打つと、にぼし姫が来る。
『最低限で十分です』
最低限。
その単語が、妙に凛っぽい。
いや、凛っぽいというのも何だ。
あの店員はたしかに余計なことを言わない。
だが必要なことはちゃんとある。
その温度が、にぼし姫のチャットとも少し似ている気がするのだ。
白狼77が、妙に勘のいいことを言い出した。
『にぼし姫って接客系?』
俺は画面を見たまま、少しだけ息を止めた。
来るな。
そこへ来るな。
数秒の既読。
『ご想像にお任せします』
またそれだ。
逃げ方が上手い。
そして、その逃げ方がいちいち怪しい。
『怪しすぎて草』
と白狼77。
『そう思うならそうなんじゃないですか』
とにぼし姫。
『否定しないのが余計怪しい』
と白狼77。
俺はそこへ、なるべく平静を装って打ち込んだ。
『別にコンビニとは限らないだろ』
送った瞬間、自分で思った。
何で今、自分から“コンビニ”を候補に出した。
白狼77がすぐ食いつく。
『お、コンビニ限定で考えてる?』
『違う』
『今自分で言ったじゃん』
『接客って言ったらいろいろあるだろ』
『でも太郎の頭の中にはコンビニがあるんだな』
最悪だ。
文字だけでニヤニヤしている顔が見えるようだ。
にぼし姫はその流れを少し眺めてから、短く入れてきた。
『夜に来る人はだいたい顔を覚えますしね』
心臓が、少しだけ強く跳ねた。
夜に来る人。
顔を覚える。
それは完全に、コンビニ店員か、かなり近い接客側の視点だ。
『ほら』
と白狼77。
『もうほぼ答えだろこれ』
『決めつけよくないです』
とにぼし姫。
よくないのはたしかだ。
だが、決めつけたくなる程度には材料が揃いつつある。
俺はしばらく画面を見てから、短く返した。
『夜勤か』
かなり踏み込んだ。
これ以上行くと、自分でも嫌な気がしていた。
だが指が動いたのだから仕方ない。
既読。
『さあ』
さあ、じゃないんだよ。
否定しないな。
やはり否定しない。
俺がチャット欄の前で黙っていると、白狼77が面白そうに追撃してくる。
『太郎、顔見知りの店員とかいるの?』
『いない』
『この即答の雑さはいるな』
『いない』
『じゃあなんでそんな反応早いんだよ』
こいつは本当に面倒くさい。
にぼし姫がまた短く入れる。
『いるんじゃないですか』
やめろ。
その言い方はやめろ。
『なんでそう思う』
と返すと、
『文体でわかります』
と来た。
何なんだそれは。
ネット上の文体と、現実の挙動不審が繋がるとでも言いたいのか。
だが、にぼし姫のこういう“わかってる側”の物言いが、今は全部妙に引っかかる。
その夜のチャットは、そこで一応終わった。
終わったが、俺の中では何も終わっていない。
---
翌日。
俺は、できれば今日はコンビニへ行きたくなかった。
こういう時に距離を置くのは大事だ。
無駄に意識している自分をクールダウンさせる意味でも、物理的に少し離れるのがいい。
だが、現実はいつもそう都合よくは運ばない。
「太郎、ちょっと行ってきて」
富子である。
理由は、醤油。
なぜこの家の醤油はこうも絶妙なタイミングで切れかけるのか。
もはや何かの陰謀を疑いたくなる。
俺は財布を持ちながら、小さくため息をついた。
「……今日じゃなきゃ駄目か」
「今日いるんだから今日でいいでしょ」
その理屈は強い。
強すぎるので反論が難しい。
仕方なく家を出る。
道を歩きながら、俺は自分に言い聞かせた。
ただの偶然だ。
ただの接客業かもしれない。
たまたま話し方が似ているだけかもしれない。
そもそも、コンビニ店員とネットの知り合いが同一人物だったとして、何だというのだ。
生活圏が少し重なっているだけじゃないか。
……いや、十分嫌だな。
自動ドアが開く。
店内へ入ると、レジにはやはり凛がいた。
もう“やはり”になっているのが嫌だ。
だが嫌だ嫌だと思うほど、人はそこを意識してしまう。
醤油を取る。
ついでにエナジードリンクも一本取る。
レジへ向かう。
凛が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
この“どうも”をやめたいのに、もう完全に手遅れだ。
商品を置く。
凛が醤油を読み取る。
ピッ。
次にエナドリ。
ピッ。
そして、何でもない調子で言った。
「今日は一本なんですね」
俺は一瞬で固まった。
「……え?」
凛はレジ画面を見ながら、さらに続ける。
「この前、二本買ってたので」
心臓に悪い。
それはただの事実確認だ。
そうなのだろう。
客が前に買っていたものを、何となく覚えていてもおかしくない。
だが、今の俺には一つ一つが全部材料になる。
「まあ……今日は補給量が少ないから」
何だその返しは。
補給量って何だ。
凛はほんの少しだけ間を置いてから、言った。
「そうなんですね」
その“そうなんですね”が、にぼし姫の“そういうことにしておきます”と脳内で勝手に繋がる。
もう自分でもかなりまずいと思う。
会計を済ませ、袋を受け取る。
このまま逃げるべきだ。
そう思ったのに、凛が最後にぽつりと言った。
「夜に来る人は、なんとなく覚えます」
俺は、完全に足を止めた。
それだ。
昨日、にぼし姫がチャットで言ったのと、かなり近い。
夜に来る人。
顔を覚える。
凛は特にこちらの反応を見て笑っているわけではない。
淡々としている。
ただ、本当にただ、レジ横の袋を整えながら言っただけに見える。
「……そうか」
それしか出ない。
「はい」
短い。
そしてその短さが、また怪しい。
店を出る。
外の空気が少しだけ蒸していた。
だが今は気温より頭の中の方がうるさい。
「いやいやいや……」
思わず口に出る。
昨日の夜。
にぼし姫。
夜に来る人は顔を覚える。
今日の凛。
夜に来る人は、なんとなく覚えます。
偶然か。
会話としてありえるか。
ありえる。
接客業なら、普通にありえる。
だが、ありえることが重なりすぎると、人は逆に現実感を失う。
まるで誰かが“ほら、もう気づくだろ”とフラグを立て続けているみたいで、逆に信用できなくなるのだ。
「フラグが雑なんだよ……」
誰に言うでもなくそう呟いた。
もし本当にそうなら。
そう考えるだけで、少しだけ胃が重くなる。
コンビニで会う店員。
ネットで話す相手。
その二つは今のところ別の棚に置かれている。
別の棚だからこそ、どうにか成立している。
それがもし一つにまとまったら、何かの均衡が崩れる気がする。
何がどう崩れるのかは知らない。
ただ、少なくとも落ち着かない。
---
夜。
やはりにぼし姫は現れた。
『醤油買えましたか』
俺はスマホを見たまま、しばらく動けなかった。
何だそれ。
何だその、今日の俺の買い物内容をピンポイントで刺すみたいな一言は。
『何で醤油』
と返す。
すぐに既読。
『なんとなくです』
絶対うそだろ。
『お前さ』
と打ちかけて、止める。
ここで踏み込んで何になる。
もし違ったらただの痛い人間だ。
もし合っていたら、それはそれで痛い。
つまり、どちらに転んでも今の時点では痛い。
白狼77がそこへ割って入ってくる。
『何その会話』
『夫婦かよ』
『違う』
と即返した。
『反応速』
『図星ほど速いんだよなあ』
うるさい。
にぼし姫が短く来る。
『補給お疲れさまです』
補給。
それは以前、俺が使った単語だ。
富子にもツッコまれたやつだ。
そして凛の前ではたしかに言っていない……はずだ。
言ってないよな?
いや、たしか言ってない。
だが、チャット上では使った。
にぼし姫はそれを拾っている。
それだけだ。
それだけのはずなのに、今日は何もかもが疑わしく見える。
『お前、ほんと何なんだよ』
と送ってしまった。
少し踏み込みすぎたかもしれない、と思ったのは送信後だ。
既読。
そして、少し間。
『たまたま詳しいだけです』
その返答に、俺はベッドへ倒れ込んだ。
「たまたま詳しいだけ、ね……」
それはもう、凛にも使えそうな表現だった。
たまたま詳しい店員。
たまたまコンビニの現場感があるネットの知り合い。
たまたま夜の客を覚えている誰か。
材料は揃っている。
だが、決め手がない。
そして何より、俺自身が決め手を取りに行く気になれない。
白狼77がまた来る。
『太郎』
『お前それ、かなり怪しいと思ってるだろ』
俺は天井を見ながら返した。
『知らない方が平和なこともある』
数秒後。
『それ、もうほぼ黒だと思ってるやつの台詞なんよ』
うるさい。
だがその通りでもある。
俺はスマホを伏せた。
確認したら終わる気がする。
何が終わるのかはわからない。
だが少なくとも、“知らないふりをしながら少し落ち着かない”くらいの今の状態は終わる。
そして人は、たまにその中途半端さへしがみつく。
真実より、不確かな平穏を選ぶことがある。
「……今日はもう寝るか」
誰に聞かせるでもなくそう言って、俺は目を閉じた。
にぼし姫。
風間凛。
頭の中でその二つの名前が並ぶ。
並ぶが、まだ一本の線にはしない。
たぶん今は、それでいい。
よくはないが、いい。
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