「“すぐ戻る”は信用してはいけない」
大人の「すぐ」は、だいたい信用してはいけない。
これは経験則である。
もちろん、本人に悪気があるわけではない。
たいてい本当に“すぐ戻るつもり”ではいる。
ただ、その“すぐ”が誰にとっての時間かを、少し雑に考えているだけだ。
大人にとっての五分は短い。
十分快ならまだ許容範囲だし、十五分でも事情があれば納得する。
だが子どもにとっての五分は長い。
大人が思っている以上に、長い。
待つことしかできない時間というのは、それだけで不安の密度が高いのだ。
そしてその日の夕方、俺は、その“すぐ”の被害者を公園の前で発見した。
いや、被害者という言い方は少し大げさかもしれない。
少なくとも、その時点では。
その日も俺は外にいた。
最近本当に外率が上がっている気がする。
これはあまり良くない傾向だ。人は放っておくと用事に慣れてしまう。
出ていた理由は、富子に醤油を頼まれたからである。
ついでに麦茶パック。
ついでに豆腐。
ついでに、ひなが後で来るかもしれないからプリン。
“ついでに”の層が厚い。家族というものは、頼みごとを積層構造で押しつけてくる。
コンビニを出た時点で、袋の中には
* 醤油
* 麦茶パック
* 豆腐
* プリン
* そして当然のように俺のエナジードリンク
が入っていた。
最後の一本だけは私費である。
その一点だけは主張しておきたい。
夕方の空気は、少しだけましだった。
暑さはあるが、昼ほどではない。
公園の脇を通ると、ブランコの音と子どもの声が聞こえる。
最近、このへんの音景色にも妙に慣れてきている自分が少し嫌だ。
その時、聞き慣れた声がした。
「おじさん」
ひなだった。
公園の入口近く。
一人で立っている。
立っているだけなら別に異常ではない。
公園の出入り口に子どもがいること自体は珍しくもない。
だが、その時のひなは、遊んでいる時の顔ではなかった。
誰かを待っている時の顔。
しかも、少しだけ不安寄り。
俺は足を止めた。
視線が先に、ひな。
次に周囲。
良子はいない。
健太もいない。
近くに大人の気配も薄い。
つまり、少なくとも今この瞬間は、ひなが一人だ。
「何してる」
かなりぶっきらぼうな声になった。
だが、こういう時に柔らかい入りを選ぶ余裕はあまりない。
ひなは俺を見ると、ほんの少しだけ安心した顔をした。
「ママがね、ちょっとだけ待っててって」
はい来た。
その“ちょっとだけ”が信用できないやつ。
「で?」
「待ってた」
「うん」
「でも、まだ」
ひなはそう言って、道の向こうを見た。
その“まだ”の中には、不満と不安が半分ずつくらい入っていた。
俺は少しだけ眉を寄せる。
「どこ行った」
「飲みもの買うって」
「どこで」
「むこう」
ひなが指さしたのは、公園の先にある小さな自販機スペースだった。
距離としては大したことない。
だが、子どもを一人待たせるには、まあ、微妙だ。
しかも“すぐ戻る”と言っているならなおさら。
「何分くらい待ってる」
「……いっぱい」
それは参考にならない。
だが参考にならないなりに、ひなの顔を見ればわかる。
本人の中では“いっぱい”なのだ。
俺は袋を持ち直した。
放って帰る選択肢はない。
ここで“まあそのうち来るだろ”と見なかったことにするほど、俺も薄情ではないらしい。そこが我ながらやや面倒だ。
「こっち立て」
俺は公園の入口から少しだけ奥、でも道から見えやすい位置を指した。
「ここ?」
「そこだと自転車の邪魔になる」
「うん」
ひなは素直に移動した。
前ならこういう指示にもう少し不思議そうな顔をしたかもしれない。
今は普通に従う。
それだけで、こっちも少しやりやすい。
「おじさん、買いもの?」
「見ればわかるだろ」
「またそれ言ってる」
ひなは袋の中を覗き込もうとする。
子どもというのは、人の袋を覗くのが好きだ。
「プリンある?」
「ある」
「やった」
「まだお前の物って決まったわけじゃないぞ」
「でもたぶんひなの」
「まあ、たぶんな」
そのやり取りだけで、ひなの顔から“少し不安”が少し減る。
子どもの気持ちは移ろいやすい。
だが、その移ろいやすさが救いにもなる。
ひなは袋の端から銀色の缶を見つけた。
「またエナジードリンク」
「うるさい」
「それ、おいしいの?」
「おいしくはない」
「じゃあなんで飲むの」
「必要だからだ」
「ほんとに?」
最近この会話何回目だ。
だが、こういうどうでもいい応酬が続いているうちは、ひなの不安が全面には出ていないということでもある。
「おじさん、それへんなにおいする」
「へんなにおいって何だ」
「前、ちょっとだけのんだとき」
「あれは飲むなって言っただろ」
「ちょっとだけだったもん」
そういう“ちょっとだけ”は信用できるくせに、大人の“ちょっとだけ戻る”は信用できない。
人類は言葉の使い方をもう少し整理した方がいい。
少し沈黙が落ちた。
ひなが小さく聞く。
「ママ、おそいね」
「そうだな」
「ほんとにすぐって言ってた」
「大人のすぐは信用するな」
思わず口から出た。
ひなが、きょとんとする。
「なんで?」
「本人はすぐのつもりでも、だいたい遅いから」
「へえ」
「特に買い物とか知り合いとか挟むと長い」
「ママ、知りあいにあったのかな」
「可能性は高い」
良子は近所で知り合いに会うと、わりと普通に数分単位で会話が伸びる。
子ども時代からそうだった気もする。
そして本人はあまりそれを長いと思っていない。
ひなが少しだけ唇を尖らせる。
「ひな、ちゃんとまってたのに」
「待ってたな」
「うん」
「えらい」
言ってから、自分で少しだけ驚いた。
えらい、なんて、ずいぶん自然に出たな。
だが、ひなはそれを当然みたいに受け取って、小さく頷いた。
「うん」
数秒の沈黙。
公園の向こうで、自転車が通る。
遠くで蝉が一匹だけ鳴いている。
ひながまた言った。
「おじさん」
「何」
「おじさん、ちゃんときてくれたね」
それは妙に、前にも聞いた系統の言葉だった。
「たまたま通っただけだ」
「でもきた」
「まあ」
「よかった」
その一言に、俺は少しだけ喉の奥が詰まる感じを覚えた。
別に大したことじゃない。
通りかかったから、少し待っているだけだ。
それだけ。
それだけなのに、“よかった”の破壊力は意外と高い。
その時、向こうからバタバタと走る足音がした。
「ひな!」
良子だった。
片手に小さい袋。
息を少し切らし、明らかに“やばい”と思って戻ってきた顔をしている。
「ごめんごめん!思ったより――あ、お兄ちゃん」
そこでようやく俺に気づく。
遅い。
「遅い」
俺は低い声で言った。
良子が一瞬だけ止まる。
「え」
「すぐ戻るって言ったんだろ」
「いや、でもほんとすぐのつもりで」
「子どもにとっては長いだろ」
自分でも少し驚くくらい、すんなり言葉が出た。
説教したかったわけじゃない。
ただ、そこは言うべきだと思っただけだ。
良子はほんの数秒黙ってから、ひなの前にしゃがんだ。
「ごめん。ほんとごめん」
ひなは少しだけむっとしていたが、すぐ小さく言った。
「……うん」
「心細かった?」
「ちょっと」
「ごめん」
良子の声が少しだけ真面目だった。
ちゃんと悪かったとは思っているらしい。
それならまあ、いい。
良子は立ち上がって、今度は俺を見る。
「いてくれたの?」
「見たら一人だったからな」
「……そっか」
その“そっか”には、からかいの色が少なかった。
珍しい。
「ありがと」
「別に」
やっぱりそれしか出ない。
良子は小さく苦笑した。
「そこは変わんないね」
「変わる必要もないだろ」
「まあ、そうだけど」
ひなが俺の袋をもう一度見た。
「プリン、つぶれてない?」
「つぶれてない」
「よかった」
「お前そればっかりだな」
「だってプリンだから」
子どもの価値基準は明快である。
三人で家の方へ歩き出す。
ひなは今度は良子と手をつないでいる。
さっきまでの少し不安な顔はもうない。
歩きながら、良子が低い声で言った。
「ほんとごめん。ちょっとだけのつもりだったんだけど」
「その“ちょっとだけ”が信用できないって話だろ」
「はいはい、すみませんでした」
「軽いな」
「ちゃんと反省してるって」
「してる顔じゃない」
「お兄ちゃん、ちょっと今、親っぽいこと言ってるよ」
その一言に、俺は少しだけ詰まった。
親っぽい。
それは別に目指したわけじゃない。
だが、たしかに今のは少しそういう方向の物言いだったかもしれない。
「ただの常識だろ」
「うん。でも言う側になるんだなって」
良子は少し面白そうに、でも少しだけ見直したような顔もしていた。
その顔は、処理に困る。
家の前に着く。
ひなが玄関へ向かいながら、元気な声で言った。
「おばあちゃんにいう!」
「何を」
「おじさん、ちゃんといてくれたって!」
またその褒め方か。
「やめろ、いちいち報告するな」
「なんで?」
「何となく恥ずかしい」
「へんなの」
ひなはそう言って、でも少し笑いながら家の中へ入っていった。
良子はその後ろを見て、軽く肩をすくめる。
「まあでも、ほんと助かったよ」
「別に」
「またそれ」
「それ以外何て言えばいいんだよ」
「“どういたしまして”とか?」
「無理だろ」
「だろうね」
そこだけは即答だった。
良子も家へ入る。
玄関の前に少しだけ一人残って、俺は袋を持ち直した。
やったことは大したことじゃない。
ひなが一人で待っていて、少しだけ一緒にいた。
それだけだ。
それだけなのに、胸の奥には妙な手応えが残っていた。
外で。
生活圏の中で。
気づいて、声をかけて、一緒に待って、少しだけ場をつないだ。
前なら、ここまで自然には動けなかったかもしれない。
「……ちょっとは、変わったのかもな」
小さく呟く。
言い切るのはまだ早い。
だが、“外でも少しなら”が、今日はもう少しだけ現実味を持っていた。
俺は玄関を開けた。
中からすぐ、ひなの声が飛んでくる。
「おばあちゃん!おじさん、ちゃんとしてた!」
「評価の語彙が雑なんだよ……」
思わずそう漏らしながら、俺は少しだけ笑っていた。
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