「配線だけは裏切らない」
人間関係は裏切る。
いや、正確には違う。
裏切るというほど劇的なものではない。
噛み合わない。
ズレる。
言わなくていいことを言う。
言うべきことを言わない。
返事が遅い。
気を遣ったつもりが余計な一手になる。
そういう意味で、人間関係はだいたい信用しすぎない方がいい。
その点、配線はいい。
刺さるところに刺し、抜けるところから抜ける。
規格が合っていれば通るし、合っていなければ通らない。
わかりやすい。
意味が明確。
努力と結果の間に、少なくとも“空気を読む”という最悪の工程が挟まらない。
だから俺は、父の帰省前日に発生した家電まわりの整理依頼に対して、不本意ながらも少しだけ真面目になってしまった。
発端は富子である。
「太郎ー!」
一階から呼ばれた時点で、俺はすでに嫌な予感がしていた。
この数日、父が帰るというだけで家の中には妙な“その前に片づけとこう”空気が漂っている。
誰も大騒ぎはしていない。
していないが、細かい作業がじわじわ増える。
そしてそのかなりの割合が、なぜか俺へ流れてくる。
俺は自室の椅子から動かずに返した。
「何」
「ちょっと見て!」
“ちょっと見て”で済んだことなど、過去にほとんどない。
見た瞬間、それはだいたい“じゃあついでにこれも”へ進化する。
「何を」
「テレビの裏!」
範囲が広い。
俺は諦めて階下へ降りた。
リビングに入ると、富子がテレビ台の前でしゃがみ込み、裏側を覗いていた。
その姿勢を見ただけで、問題の種類はだいたい察せる。
「何したんだよ」
「何もしてないわよ」
その返答は信用できない。
“意図して何かをしたわけではない”と“何も起きていない”は別だ。
近づいてみると、テレビの裏からケーブルが何本も出ていた。
電源。
録画機。
ゲーム機。
Wi-Fiルーターの線まで近くを通っている。
おまけに使っていないはずの延長コードが一本、妙な角度で巻かれている。
「あー……」
思わず声が出た。
汚い。
いや、汚いというより、“積み重なった生活”の状態だった。
その場その場で必要なものを差し、不要になったものをとりあえず残し、誰も最適化しないまま数年が経った配線。
こういうものを見ると、人はだいたい二種類に分かれる。
見なかったことにする人と、急に全部やりたくなる人だ。
残念ながら、俺は後者だった。
「テレビの音がたまに変なのよ」
富子が言う。
「たまに?」
「なんかこう、急に切れるっていうか、戻るっていうか」
「それ、配線か設定か、リモコンか、どれかだろ」
「だから見てって言ってるじゃない」
雑な依頼だな。
俺はしゃがみ込んでテレビ台の裏を覗き込んだ。
まず接触が甘そうなHDMI。
次に電源タップ。
そしてルーターの位置。
さらに見ていくと、テレビ本体とレコーダーのコードが妙に引っ張られている。
たぶん掃除の時に少し動かして、そのまま戻したのだろう。
こういう“ちょっと動かした”が一番よくない。
「あとね」
富子が言う。
来た。
追加だ。
「和室のエアコンのコンセント、ちょっと位置悪いのよ」
知ってる。
知っているし、今日中に来ると思っていた。
「お父さんスマホ置く場所も、充電しやすい方がいいかなって」
「今テレビの話してただろ」
「でもついでだから」
家族の“ついで”はついでではない。
これはもう何度も証明されている。
俺はテレビ台の裏から顔を上げた。
「つまり、今日は家の配線まわり全体か」
「そういうことになるのかしら」
「なるんだよ」
言ってから、少しだけ自分の声の温度が変わっていることに気づく。
面倒くさい。
そう思っているのは本当だ。
だが同時に、ここまで見せられると“中途半端に直して終わるのは気持ち悪い”も発動する。
これはもう病気に近い。
俺は立ち上がった。
「工具箱どこ」
富子が少しだけ目を丸くした。
「え、そんなにやるの?」
「やるなら一回でやる」
「ふーん」
その“ふーん”は、理解していない人間の相槌だ。
だがまあいい。
この手の作業は、わかる人間だけが本気になればいい。
---
三十分後。
リビングの床には、見事に文明の残骸が広がっていた。
外した延長コード。
まとめ直す予定のケーブル。
用途不明の充電器。
昔のゲーム機用の映像端子。
なぜか二本あるLANケーブル。
そして、もう使っていないはずなのに“たぶんまだ何かに使う”気がして捨てられないアダプタ群。
「うわ……」
良子が来て第一声がそれだった。
「何これ」
「配線整理」
「それは見ればわかる」
最近よく聞くな、その返し。
ひなも後ろから覗き込んでいる。
そして、当然のように健太までいる。
「何してんのおじさん」
「見ればわかるだろ」
「それ最近おじさんもよく言うね」
うるさい。
俺は床に座り、ケーブルタイを手に取った。
「いいか、まず用途ごとに分ける」
説明し始めてから、自分でも思う。
何で説明しているんだ。
だが、見ている側が何もわかっていない顔をしていると、つい言葉が出るのだ。
これはもう性分である。
「テレビ本体、レコーダー、ルーター、ゲーム機、充電系。
最初にこれを分ける。混ぜると死ぬ」
「死ぬの?」
ひなが真顔で聞いた。
「比喩だ」
「何でそんな怖い言い方するの」
良子が即座に切る。
「怖くはないだろ。意味がわからなくなるだけだ」
「その説明でよかったじゃん」
健太が手を伸ばす。
「これ何の線?」
「触るな」
「えー」
「用途不明だから今判定中なんだよ」
「用途不明って何」
「今のままだと、わからないってことだ」
「じゃあいらなくない?」
子どもは残酷だ。
たしかに理屈の上ではそうだ。
だが、用途不明と不要は違う。
世の中には、いざという時に“あれ残しといてよかった……”となるケーブルがある。
そのいざが何なのかは、たいていこちらも曖昧だが。
「そういう単純な話じゃない」
俺が真顔で言うと、良子が吹き出す。
「出たよ」
「何が」
「捨てられないオタクの理論」
「オタク関係ないだろ」
「いや、かなりあるでしょ」
否定はしきれない。
俺はひとまず使っていないアダプタを三つに分類した。
明らかに不要。
たぶん保留。
現役。
この“たぶん保留”が一番増える。
人生もだいたいそうだ。
良子が、転がっていた古いリモコンを拾い上げた。
「これ何の?」
「あ、それテレビ台の奥から出てきた」
「何で二個あるの」
「昔のやつか、前のレコーダーのだろ」
「じゃあいらなくない?」
「判定が雑なんだよ」
そこで健太が感心したみたいに言う。
「おじさん、こういう時だけめっちゃしゃべるね」
余計だ。
「こういう時だけ、はやめろ」
「でもほんとだよ」
ひなまで頷く。
「うん。今おじさん、ちょっと目がちがう」
「何だその言い方」
「なんか、ほんき」
不本意だが、否定はできなかった。
配線まわりは、本気を出すと見えてくるものがある。
どのコードが無駄に長いか。
どの位置だと熱がこもるか。
どこへ電源タップを置けば掃除の時に引っかからないか。
こういうことは、放っておくとずっと微妙な不便として残るのだ。
だから、やるなら今だ。
---
一時間後。
リビングのテレビ台まわりは、かなりまともになっていた。
コードは用途ごとに束ねた。
ルーターは少し高い位置へ移動。
ゲーム機の接続も整理。
使わない延長コードは撤去。
リモコンの電池もついでに確認。
和室には充電しやすい位置へ短い延長を一本だけ通しておいた。
「終わった……」
俺は床に座ったまま、小さく息を吐いた。
達成感がある。
悔しいが、かなりある。
ケーブル整理というのは、目に見える生活改善の中でもかなり即効性が高い。
整った配線を見ると、人は少しだけ“人生が立て直せるかもしれない”という錯覚を得る。
もちろん錯覚である。
配線が整っても人間関係は整わない。
だが、整ったような気分にはなれる。
富子が和室から戻ってきて言った。
「充電しやすくなってる」
「そりゃそうだろ」
「えらいえらい」
褒め方が雑だな。
良子はテレビ台の前を見て、少しだけ本気で感心した顔をした。
「え、すご。
さっきまであんなにぐちゃぐちゃだったのに」
「だから整理したんだろ」
「いやそれはそうだけど、そこまでやる?」
「やるならやる」
「出た、面倒くさい職人気質」
違う。
職人ではない。
ただ、半端な状態が気持ち悪いだけだ。
ひなが和室のコンセントを見に行って、戻ってくる。
「おじさん、おじいちゃんのスマホここでできる?」
「できる」
「すごい」
「別に」
健太が、ケーブルの束を指差した。
「これ、さっきよりつよそう」
「つよそうって何だよ」
「なんかまとまってるから」
雑だが、まあ、わからなくもない。
良子が肩をすくめる。
「でもほんと、こういう時だけ頼りになるよね」
その“こういう時だけ”が今日二回目である。
刺さる。
「だけをつけるな」
「事実じゃん」
「事実でも言わなくていいことあるだろ」
「お兄ちゃんがそれ言う?」
正論だが腹が立つ。
富子は何でもない顔で言った。
「助かったわ」
その一言の温度が、いちばんちょうどよかった。
大げさではない。
だが、確かに頼ったし助かった、というくらいの重さ。
このくらいなら、受け取っても変に居心地が悪くならない。
俺は床の上に残った“たぶん保留”のアダプタ箱を見た。
「これどうする」
「いるの?」
富子が聞く。
「……たぶん、いる」
良子が吹き出す。
「何その一番信用できないやつ」
「いや、こういうのは急に要る時があるんだよ」
「それ、たぶん一生言ってる」
そうかもしれない。
だが、人には捨てられないものがある。
それがコード一本だとしても。
ひなが箱を覗き込んだ。
「これ、おじさんのたからばこ?」
「違う」
違うが、完全否定もしづらいのが嫌だ。
「用途不明の退避箱だ」
「もっとわかんない」
たしかにそうだった。
---
夜、自室へ戻ったあとも、俺は少しだけ妙な満足感を引きずっていた。
机に座る。
モニターの光。
静かな部屋。
配線を整理しただけだ。
それだけなのに、今日は無駄に疲れたし、無駄に達成感もある。
「……配線だけは裏切らないんだよな」
独り言が出る。
刺さる場所に刺せば通る。
通らなければ、どこかが違う。
このわかりやすさは、本当にありがたい。
父が帰ってきた時、その充電場所やテレビの設定にどれだけ気づくかはわからない。
たぶん気づかないかもしれない。
だが、使いやすくなっていればそれでいい。
準備とは本来そういうものだ。
スマホが震えた。
良子からメッセージだった。
『お兄ちゃん今日ちょっとかっこよかったよ』
『配線の時だけ』
最後の一文で全部台無しだ。
俺はしばらく画面を見てから、短く返す。
『余計だ』
すぐ既読。
『でもほんと助かった』
その二通目は、少しだけ反応に困った。
俺は数秒迷ってから、こう返した。
『まあ、あのままだと気持ち悪かったから』
送ってから、我ながら実に俺らしい返しだと思った。
助けたかったとか、役に立ててよかったとか、そういう方向へは最後まで行かない。
ただ、自分が気持ち悪かったから直した、という言い方に逃がす。
それでいい。
たぶん、今はそのくらいがちょうどいい。
俺はスマホを伏せ、背もたれへ身体を預けた。
父帰省前夜。
イベント本番はまだ来ていない。
だが、少なくとも準備フェーズの一つは終わった。
「……あとは会話か」
そこだけは、いくら配線しても整わない。
その現実だけが、静かな部屋の中でやけに重かった。
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