「健太、お前は距離感をどこに捨てた」
子どもには、二種類いる。
警戒しながら近づいてくる子と、最初から壁を壁だと思っていない子だ。
ひなは前者だった。
最初は俺のことを“実家にいる変なおじさん”として遠巻きに見ていて、少しずつ安全確認をしながら近づいてきた。
その過程には一応、順序があった。
観察。
確認。
会話。
信頼。
そういう、人としてわりとまともな手順が。
だが健太には、それがない。
あいつはたぶん、面白そうかどうかでしか判断していない。
そこに危険性や礼儀や遠慮の概念が何割あるのか、俺にはまだよくわからない。
少なくとも、少ないことだけは確かだ。
その日、俺は自室で平和だった。
休日の昼。
外は少し曇り。
エアコンの効きは悪くない。
俺は机の前に座り、ネットでどうでもいい情報を巡回しながら、時々ゲームを起動し、さらに時々スマホでセール情報を見ていた。
三方向同時展開。
人によっては無駄と呼ぶだろうが、俺にとっては整った平常運転である。
こういう時間があるから、人はどうにか正気を保てるのだ。
だから、階下から富子の声が聞こえた時点で、すでに少し嫌な予感はしていた。
「太郎ー!」
「何」
「健太くん来てるわよー!」
何でだ。
それが最初に出た感想だった。
いや、健太が来ること自体はもうそこまで異常ではない。最近のあいつは、佐藤家をだいぶ気軽に通過ポイント扱いしている節がある。
問題は、なぜわざわざ俺に報告されるのか、である。
「だから何だよ」
「ひながいるから、二階行きたいんじゃない?」
最悪だ。
俺は椅子の上で固まった。
つまり今この家には、ひなもいる。
健太も来た。
そして富子は、その二人が二階へ上がることをほぼ自然現象として受け入れている。
やめてくれ。
せめて一度、止める努力を見せてくれ。
その直後、廊下を走る足音が聞こえた。
「おじさーん!」
健太だ。
声量が無駄に高い。
「待て!」
俺が叫んだ時にはもう遅かった。
ドアが、開いた。
ノックはなかった。
いや正確には、ドアノブに手をかけながら「入っていい?」くらいの気配はあったかもしれないが、こちらの返事を待たない時点で意味がない。
健太が、元気な顔で立っていた。
その横に、ひな。
ひなは以前よりもう自然に部屋の前まで来る。いや、今はもう中まで普通に来るか。
「おじさん、遊びに来た」
「俺の部屋は児童館じゃない」
「でもひなも来るって」
ひなを見る。
ひなは少しだけ気まずそうに言った。
「けんたが、ゲームみたいって」
お前はもう少し断れ。
いや、ひな自身も部屋に来ることに抵抗がなくなっているのだろう。それ自体は徐々に見えていた。だが、そこへ健太のような外圧が乗ると、一気に結界が安くなる。
「ちょっとだけ!」
健太が言う。
子どもの“ちょっとだけ”は信用してはいけない。
あれは時間の単位ではない。
状況を突破するための呪文である。
「駄目だ」
「何で!」
「何ででもだ」
「見るだけ!」
「それも信用できない」
健太は、そういうことを言われて引くタイプではない。
むしろ興味を持つタイプだ。
「何でそんなに秘密基地みたいにしてんの」
「秘密基地じゃない。部屋だ」
「でも秘密ありそう」
「誰の部屋にも多少はあるだろ」
「おじさんのは多そう」
否定しきれないのが悔しい。
その時、良子が廊下の向こうから顔を出した。
「何やってんの、あんたたち」
「おじさんが入れてくれない」
健太、お前、その言い方はやめろ。
良子は俺と子ども二人を見比べて、すぐに状況を察したらしい。
「お兄ちゃん、別にいいじゃん。ずっと遊ぶわけじゃないでしょ」
「その“ずっと”じゃない判断基準やめろ」
「でもひなもいるし」
「ひながいることは免罪符じゃない」
「でもひな、前より普通に入ってるじゃん」
痛いところを突いてくる。
ひなは黙っていたが、その沈黙自体が少し答えになっていた。
たしかに、前よりはもう入っている。
ゲームもした。
フィギュアも見た。
今さら完全拒否の態度に戻るのも、たしかに少し不自然ではある。
俺は深いため息をついた。
「……五分」
「やった!」
「五分だぞ」
「うん!」
信用できない返事だった。
俺は仕方なくドアを大きめに開けた。
健太が勢いよく入ろうとして、思わず肩を掴む。
「走るな」
「えっ」
「えっ、じゃない。ここは公園じゃない」
「はーい」
返事だけはいい。
部屋へ入った瞬間、健太の目が輝いた。
嫌な予感しかしない。
「うわっ」
第一声がそれである。
「なにこれ」
「何って……部屋だよ」
「いや部屋なのはわかるけど、何かいっぱいある!」
ざっくりしすぎだ。
健太の視線は棚から机、机から床、床から箱へと落ち着きなく走る。
フィギュア。
ゲーム機。
古い攻略本。
積んだ漫画。
ケーブル類。
俺にとっては整然とした領域だが、子どもからすれば“物がたくさんある面白そうな空間”なのだろう。
「勝手に触るなよ」
「わかった!」
わかっていない声だ。
案の定、三秒後には棚の前で指を伸ばしていた。
「これ何?」
「ロボ」
「ロボなのは見ればわかる」
最近この返し多いな。
「古いやつだ」
「動く?」
「少しは」
「変形する?」
「するけど勝手にやるな」
ひなは健太ほど落ち着きなくはないが、前よりはずっと自然に部屋の中を見ている。
俺の椅子の近くに立ち、モニターを見て言った。
「きょうは何してたの?」
「別に」
「また別にって言ってる」
「巡回」
「じゅんかい?」
「ネット」
「ああ」
最近ひなは、この手の意味不明な単語をなんとなく流せるようになってきた。
健太が今度は机の横の箱を見つけた。
「何で箱こんなあるの?」
来た。
触れてほしくない質問ランキング上位。
「捨ててないからだ」
「それは見ればわかる」
子どもはたまに妙に正しい。
「何で捨てないの?」
「必要だから」
「何に?」
そこで俺は少しだけ詰まった。
必要、と言うのは簡単だ。
だが何に必要かと聞かれると難しい。
保存。
所有感。
売る時。
気分。
“箱込みで持ってる”という満足。
いろいろあるが、全部を子どもに伝わる形へ整えるのはかなり難しい。
「……いろいろだよ」
「いろいろって何」
「箱も本体みたいなもんなんだよ」
言ってから、自分でも危うい説明だと思った。
だが健太はきょとんとしている。
当然である。
「本体じゃないじゃん」
「そうだけど、そうじゃないんだよ」
最悪の説明だ。
そこへ良子がすかさず入ってくる。
「お兄ちゃん、それわかる人にはわかるけど、子どもに説明してもわかんないやつ」
「いや、でも箱って大事だろ」
「はいはい」
良子は完全に面白がっていた。
「それより健太くん、勝手に触らないの。壊したら大変でしょ」
「壊さないよ!」
「そう言う子ほど壊すの」
ひなが小さく言う。
「この前、うさぎのキーホルダー引っぱってた」
「引っぱってない!ちょっと持っただけ!」
持っただけで済むなら世の中の事故はもっと減っている。
健太はすぐ次の標的を見つけた。
古いゲーム機のコントローラー。
「これ今のやつじゃない」
「見ればわかる」
「でもゲームできるの?」
「できる」
「えっ、やりたい」
「駄目」
「何で!」
「説明がめんどくさい」
「またそれ!」
また、と言われても事実だ。
だが、健太は引かない。
ひなも横から言う。
「おじさん、この前のやつやろ」
お前まで乗るな。
「いや、今日は無理だ」
「ちょっとだけ!」
「その“ちょっとだけ”は信用してないって言ってるだろ」
良子が笑いをこらえながら言う。
「お兄ちゃん、今日何回ちょっとだけって言われてるの」
「子どもはその単語しか使えないのか?」
「便利なんでしょ」
便利ではある。
こっちが断りづらくなるから。
結局、俺はコントローラーを一つだけ出した。
「見るだけだからな」
「やった!」
「聞いてないな……」
画面に古いゲームのタイトルを映す。
健太は一発で食いついた。
「うわ、何か古い!」
「古いって言うな」
「でも古いでしょ」
「まあ古いけど」
「でも何かかっこいい」
その“何かかっこいい”は、わりと悪くない評価だった。
ひなは少し得意げに言う。
「おじさん、こういうのいっぱい知ってるよ」
「別にいっぱいでは」
「いっぱいだよ」
健太がコントローラーを握る。
「これジャンプどれ?」
「それ」
「攻撃は?」
「こっち」
「これやば。全然違う」
「今のと比べるな」
そこから五分だけのはずが、当然のように十分以上経った。
健太はへたくそだが妙に楽しそうで、ひなは横から「あ、そこ」「また落ちた」と言い、良子は壁にもたれて笑っている。
俺はと言えば、最初は嫌だったはずなのに、気づけば普通に説明していた。
「そこは早い」
「ジャンプ先」
「今のは敵見てない」
「いやだから入力を雑にするな」
途中で自分でも思う。
何で俺は、近所の小学生相手にレトロゲーム講習会を開いているんだ。
だが、健太が「うわできた!」と本気で喜ぶと、少しだけ悪くない気もしてしまうから困る。
やがて良子が時計を見て言った。
「はい、もう終わり。さすがに長い」
「えー!」
「五分って言ったのにもう倍以上やってるから」
健太が不満そうな顔をする。
「もっとやりたい」
「また今度」
俺がそう言うと、自分で少しだけ驚いた。
また今度。
何でそんなことを口走った。
次回開催をこちらから匂わせるな。
健太はぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「……気が向いたら」
「やった!」
都合のいいところだけ聞くな。
ひなも当然みたいに頷く。
「またくるよ」
「お前ももう完全に来る前提なんだな」
「だって来るし」
何も言い返せない。
子ども二人が部屋を出ていく。
良子だけが最後に残り、にやにやしながら言った。
「お兄ちゃん、もう普通に子どもの遊び場になってるじゃん」
「なってない」
「なってるって。今の完全に秘密基地認定だよ」
「よくないだろ、それ」
「でも健太くん、相当楽しかったと思うよ」
「……そうか」
「ひなもね」
そこで良子は少しだけ笑い方を弱めた。
「前より、すごい自然だよ」
その一言は、思ったより軽く受け流せなかった。
たしかにそうだった。
健太は最初から遠慮がないとしても、ひなまで自然にそこへいる。
俺の部屋に。
俺の好きなものの中に。
その光景に対する違和感が、前より少し薄くなっている。
「……別に」
結局それしか言えなかった。
良子はそれ以上何も言わず、肩をすくめて出ていった。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
戻るが、さっきまでと同じ静けさではない。
机の上のコントローラー。
少しずれた椅子。
健太が触りかけた箱。
ひなが見ていた棚。
結界は、また少しだけ弱くなったのかもしれない。
あるいは、弱くなったというより、“何人かには通行許可が出てしまった”のか。
「……思ったより当たり、ね」
健太の言葉を思い出して、俺は顔をしかめた。
褒められているのかどうか、いまだに微妙だ。
だが、完全な悪口でもなかった。
俺はコントローラーを元の位置へ戻し、積んであった箱を少しだけ整えた。
「距離感を捨てたのはあいつだけじゃないのかもな」
小さくそう呟いて、自分で少しだけ嫌になる。
子どもたちはたぶん、また来る。
来る前提で動いている顔をしていた。
こちらがいくら結界とか言っても、あいつらにはゲームのセーブポイントくらいの軽さでしかないのだろう。
面倒だ。
実に面倒だ。
それでも、部屋の中に残ったさっきの騒がしさは、思ったほど嫌ではなかった。
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