プロローグ 「推しのクリアファイルは命より重い」
第3幕の始まりです。
ランダム特典は悪い文明である。
これはもう議論の余地がない。
異論は認めるが、認めた上でなお、やはり悪い文明だと思う。
なぜなら、欲しいものを欲しいままに手に入れさせないからだ。
人は本来、もっと静かに生きるべきである。
必要なものを買い、必要なぶんだけ消費し、心を乱さず一日を終える。
それが理想だ。
その理想に対して、コンビニのアニメコラボというやつはあまりにも敵対的すぎる。
対象商品を二点購入ごとに、限定クリアファイルを一枚プレゼント。
全四種。
先着順。
なくなり次第終了。
考えたやつはたぶん少し性格が悪い。
かなり悪い。
いや、よく考えたらだいぶ悪い。
その日の昼下がり、俺――佐藤太郎は自室の机に肘をつき、スマホ画面を真顔で見つめていた。
コンビニ公式アプリ。
トップにでかでかと出ているコラボ告知。
今期アニメとのフェア開催。
対象商品には小さくシールが貼られ、二点で一枚、限定デザインのクリアファイルがもらえるらしい。
「……別に要らないだろ」
俺は口に出して言った。
こういう時は、まず声に出すのが大事だ。
音として発することで、自分の中のどうでもいい欲望を客観視できる。
少なくとも、できることがある。
できない時も多いが。
俺はスマホを伏せた。
机の上にはノートPC。
別窓で動画サイト、掲示板、通販サイト。
平和な布陣だ。
この平和を、たかがクリアファイル一枚で乱す必要はない。
そもそも、三十九歳の中年男が近所のコンビニへ行き、対象商品を二つ抱えて、レジで「景品どれにしますか」と聞かれる状況を冷静に想像してみろ。
かなり嫌だ。
かなり嫌である。
やめておけ。
今回は見送れ。
大人らしく、スルーしろ。
そう思って、俺は一度だけ深呼吸し、改めてスマホを手に取った。
……いや、待て。
対象商品くらいは確認しておくべきではないか。
確認したからといって参加が確定するわけではない。
情報を把握することと、戦場へ向かうことは別だ。
情報戦という言葉があるように、現場へ行かない者にも最低限の知識は必要である。
「確認だけだ」
誰に向けるでもなくそう言って、俺は対象商品の一覧を開いた。
飲料。
菓子。
カップ麺。
思ったよりも、普通に買えるものが多い。
よくない。
非常によくない。
対象商品が全部、普段絶対買わない妙なゼリー飲料とか、変に高い栄養バーとかなら、まだ理性は保てた。
だが、飲めるジュースや普通のスナック菓子が混ざっていると、“ついでに買える”という最悪の逃げ道が発生する。
「いや、でも二点だぞ」
それも重い。
一点ならまだ勢いでいける。
二点は明確に参加の意思が必要だ。
そこへ景品を一枚もらうとなると、もう偶然ではない。目的である。
俺はさらにページをスクロールした。
クリアファイルの絵柄一覧が出る。
全四種。
主人公。
メインヒロイン。
ライバル枠。
そして、俺が一番気になっている、脇役寄りだが人気の高いあのキャラ。
「……だからよくないんだよ、こういうのは」
なぜよりによって入れる。
その枠を。
どうせなら主人公だけにしておけ。
いや、それはそれで作品としてどうなんだという話になるのだが、少なくともこちらの心の平穏は守られた。
しかもアプリ下部には、最悪の一文が添えられていた。
**人気絵柄は早期終了の可能性があります**
知るか。
いや知りたくない。
その情報を受け取った時点で、もう知らなかった自分には戻れない。
俺はスマホを置き、天井を見た。
これは戦いではない。
そう言い聞かせる。
あくまで確認だ。
確認した結果、もし夕方くらいにまだ残っていれば、その時たまたま飲み物が必要になって、たまたま二点買うことがあるかもしれない。
それは偶然の連続であって、事前に計画された参加ではない。たぶん。
だが、人は本気でどうでもいいなら、すでにアプリを閉じている。
俺は静かに椅子から立ち上がった。
「……補給に行くか」
その一言で、参加は実質確定した。
---
玄関を下りると、富子がリビングで洗濯物をたたんでいた。
「どこ行くの」
やはり聞かれる。
「ちょっとコンビニ」
「また?」
「補給だよ」
「何の」
「いろいろ」
この“いろいろ”は便利だ。
曖昧さに守られる。
具体的に説明しなくていい。
少なくとも、対象商品二点購入ごとに限定クリアファイルがどうとか、そういう恥ずかしい情報まで開示せずに済む。
富子は手を止めずに言った。
「飲み物なら冷蔵庫にあるでしょ」
「別のがいる」
「何その作戦会議みたいな言い方」
鋭いな。
だが今のこちらは、まさに作戦会議の終盤にいる。
「すぐ戻る」
「はいはい」
富子の温度は低い。
いいことだ。
家族にまでイベント感を出されたら、こちらの精神が持たない。
玄関を出る。
外はまだ明るい。
暑いが、昼よりはましだ。
コンビニまでの道を歩きながら、俺は無駄なシミュレーションを始めていた。
まず、対象商品をどう選ぶか。
甘い飲み物二本は露骨すぎる。
菓子二つも、絵柄目当て感が強い。
飲み物と菓子の混成なら自然か。
いや、自然とは何だ。
そもそも店員は客の構成などいちいち気にしていない可能性の方が高い。
しかし“気にしていない可能性”と“自分が気になる”は別問題である。
そしてもう一つ。
レジだ。
レジで景品を選ぶ瞬間が一番危険だ。
あそこだけは、こちらの目的が完全に可視化される。
しかも相手が凛だった場合、精神的被害は通常の一・五倍くらいになる。
店の看板が見えた。
「……まだ慌てるような段階じゃない」
いや、わりと慌てている。
自動ドアが開く。
冷房の空気。
明るい店内。
そして入口すぐ横の特設棚。
ある。
クリアファイルはまだあった。
だが、思ったより減っている。
「えっ」
思わず声が出た。
四種のうち、主人公はまだ余裕がある。
ヒロインもそこそこある。
ライバル枠は半分くらい。
そして、あのキャラは――残り二枚。
「……始まってるじゃねえか」
戦況が。
いや違う。
戦況ではない。
ただ景品が減っているだけだ。
だが、欲しい絵柄が残り二枚と知った瞬間、人間の中の冷静さはいろいろ削がれる。
俺はすぐ対象商品棚へ向かった。
冷静に。
ここで焦って意味のないものを二つ取るのは悪手だ。
終了後に自室で“なぜ俺はこの味の炭酸を二本も……”と反省する未来が見える。
飲み物棚の前で立ち止まる。
対象商品シールつきのジュース。
スポドリ。
炭酸。
菓子棚にはスナックとチョコ。
俺は一本手に取って戻し、別の一本を取って戻し、結局ジュースとスナックの組み合わせが一番自然ではないか、という結論へ傾いた。
だがその時点で、俺は棚の前で三十秒以上うろうろしている。
もう不審だ。
「……決めろ」
自分に言う。
ジュース一本。
スナック一袋。
これで行く。
よし。
商品を持って特設棚の方をちらりと見る。
まだ残っている。
だが、別の客が近くを通るたびに心臓が少しだけ跳ねる。
ここで奪われたら。
いや、奪われるも何も景品は早い者勝ちだ。
こちらには所有権など最初からない。
俺はレジへ向かった。
そして、やはりというべきか、風間凛がいた。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
出た。
もう仕方ない。
俺は商品を置く。
ジュース。
スナック。
凛がバーコードを通す。
ピッ。
ピッ。
「景品、どれにしますか」
来た。
心の中でわかっていても、実際に音声化されると破壊力が違う。
この一言で、こちらの目的は完全に確定する。
レジ前でのすべての保護色が剥がれる。
俺は特設棚を見た。
「……左端」
言った。
ついに言ってしまった。
凛は振り返り、迷いなくその絵柄を取った。
残り一枚が、こちらのものになる。
その事実だけで、少し安心する自分が悔しい。
「人気ありますね」
凛が何でもない口調で言う。
「……そうなのか」
「そのキャラ、減るの早いです」
やめろ。
そこで共通認識っぽい言い方をするな。
だが俺は気づけば返していた。
「まあ、わかるけど」
しまった。
その返しは、完全に“わかる側”の人間だ。
凛は特に茶化しもせず、景品を袋へ入れながら続けた。
「主人公よりこっちの方が好きな人、けっこう多いみたいですね」
その言い方も、妙にわかっている感がある。
問い合わせが多いからか。
店内放送で名前を覚えたのか。
理由はいくらでもあるはずなのに、こっちは勝手にそこへ意味を見出しそうになる。
「……原作の方だと、こっちの積み重ねがあるからな」
言ってから、俺は固まった。
やった。
やってしまった。
普通に語った。
しかも原作だと、である。
その一言には、アニメ視聴だけではない前提知識の匂いがする。
近所のコンビニ店員相手に出していい温度ではない。
凛はほんの少しだけ目を上げた。
「そうなんですね」
その返しは普通だった。
だが普通だからこそ、こちらだけが一方的に恥ずかしい。
「……まあ」
俺はもう、それしか言えなかった。
「袋、どうしますか」
「お願いします」
「ポイントカードありますか」
「ないです」
会話は通常運転へ戻る。
それが逆にありがたい。
会計を済ませ、袋を受け取る。
景品の重みは薄い。
だが精神的な存在感はやたら大きい。
「ありがとうございました」
「……どうも」
店を出る。
夕方の空気が、少しだけぬるかった。
俺は数歩歩いたところで立ち止まり、袋の中を確認した。
景品。
欲しかった絵柄。
「……間に合った」
小さく呟く。
それ自体は、普通に嬉しい。
嬉しいのに、その感情と同じだけ、“さっき原作の話したな……”という反省も来る。
なぜ人は、好きなものの話になるとつい少し余計なことを言ってしまうのか。
答えは簡単だ。好きだからである。
だが好きだからこそ、あとで恥ずかしい。人類はそこをまだ克服していない。
---
部屋へ戻ると、俺は袋を机の上へ置き、クリアファイルを取り出した。
絵柄を確認する。
折れなし。
傷なし。
良好。
「……よし」
目的達成。
ここだけ切り取れば完全勝利だ。
だが、そのままベッドへ座ると、さっきの会話が一気に押し寄せてきた。
人気ありますね。
原作の方だと。
そうなんですね。
「……やらかしたな」
顔を覆う。
語った。
明確に少し語った。
あれはもう、普通の客の温度ではない。
少なくとも俺の中ではそうだ。
しかも、凛は別に笑ってもいないし、引いてもいない。
だから余計に逃げ場がない。
微妙に成立してしまった会話ほど、あとからじわじわ効くものはない。
スマホが震えた。
にぼし姫からだった。
『始まりましたね』
俺は無言で画面を見つめた。
何がだよ、と言いたい。
だがタイミング的には、たぶんあのフェアのことだ。
『そうだな』
とだけ返す。
すぐ既読。
『欲しいの取れましたか』
俺は指を止めた。
何だその聞き方。
一般論としてなら、別におかしくはない。
フェアの話題をしているのだから、欲しい絵柄がある人だっているだろう。
だが、今のこちらはタイミングに弱い。
『まあ』
とだけ返す。
数秒後。
『人気のやつですね』
やめろ。
それを言うな。
『何でわかる』
と打ちかけて、やめた。
代わりに、
『たまたまだろ』
と送る。
『そういうことにしておきます』
にぼし姫から返ってきたその一文は、妙に引っかかった。
そういうことにしておきます。
何をだ。
何を、だよ。
俺はスマホを伏せ、クリアファイルをもう一度見た。
欲しかったものが手に入った。
それは事実だ。
だが今日の戦いは、たぶん完全勝利ではない。
景品確保という一点では勝った。
しかし、レジ前における平静と、会話中のオタク隠密性に関してはかなり危うかった。
「……まあ、でも」
独り言のあと、少しだけ息を吐く。
欲しいものを欲しいと言いづらい空気の中で、こっそりでも取りに行った。
それを恥ずかしいと思うのはいつものことだ。
だが、その恥ずかしさ込みでちょっと嬉しいのだから、人間は面倒くさい。
俺はクリアファイルを机の端に立てかけた。
部屋の薄暗さの中で、透明な輪郭が少しだけ光る。
「……命より重いは言いすぎだな」
自分でそう呟いてから、すぐに訂正する。
「いや、レジ前ではちょっと重かったか」
誰も聞いていない部屋で、俺は一人だけ納得した。
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