「家の外でも、少しなら」
人が動く時、たいてい立派な理由はない。
正義感とか責任感とか、そういう綺麗な言葉で説明できることも世の中にはあるのだろう。
だが少なくとも、俺の人生においてはあまり多くない。
気づいたから。
放っておくと面倒になりそうだったから。
目の前で困っていたから。
その程度だ。
けれど、案外そういう“その程度”の方が、あとからじわじわ効いてくることがある。
その日の夕方、俺は珍しく一人で外にいた。
理由は簡単だ。
富子に醤油を頼まれたからである。
最近、本当にこういうのが増えた。
家にいるんだからついでに。
近いんだからそのくらい。
どうせ出るなら。
その理屈で、俺の生活圏はじわじわと広がり続けている。
もちろん、今日も最初は面倒だった。
面倒だったが、町内清掃を一度経験してしまうと、コンビニまでの買い物くらいが相対的に軽く見えるから不思議だ。
人間の基準とは、こうして少しずつ壊れていくのかもしれない。
コンビニへ向かう途中、空はもう少し赤みを帯び始めていた。
夕方の住宅街。
昼よりはましだが、人の気配はまだある。
どこかの家から夕飯の匂い。
自転車のブレーキ音。
子どもの笑い声。
そういうもの全部に、俺は相変わらず少しだけ気を張る。
慣れたわけではない。
ただ、昔より少しだけ“耐えられる時間”が伸びたのだと思う。
コンビニで醤油を買い、ついでに自分用のエナジードリンクも一本だけ確保し、店を出る。
レジには幸い凛はいなかった。
いや、幸いと言っていいのかどうかは微妙だ。
いないと少しだけ安心し、いたらいたで妙に気にする。
最近はそういう面倒な領域に入ってきている気がして、自分でも嫌になる。
帰り道は、公園の脇を通るルートだった。
近道ではない。
だが車通りが少なくて歩きやすいので、夕方はその道を使うことが多い。
公園にはまだ子どもが少し残っていて、ブランコがきしむ音が遠くに聞こえる。
その時、聞き慣れた声がした。
「あれ?」
ひなだった。
公園の入口あたりに立っていて、きょろきょろとあたりを見ている。
良子の姿はない。
近くに大人も見えない。
俺は反射的に足を止めた。
ひなもこっちに気づき、少しだけほっとした顔をする。
「おじさん」
「何してる」
かなりぶっきらぼうな言い方になったが、内心では一瞬で別の警報が鳴っていた。
ひなが一人。
公園の入口。
きょろきょろしている。
つまり、何かしら“ちょっと困っている”状態の可能性が高い。
「ママがね、ちょっとだけ待っててって言って」
「で?」
「待ってた」
「うん」
「でも、いない」
やっぱりそうか。
俺は公園のまわりをざっと見た。
良子の姿はない。
トイレか、自販機か、知り合いに捕まったか、そのへんだろう。
大ごとではない可能性の方が高い。
だが、ひなの顔は明らかに“ちょっと困る”を越えて、少し不安寄りに傾いていた。
「どっち行った」
「わかんない」
「何て言ってた」
「すぐもどるって」
子どもにとっての“すぐ”は大人よりずっと短い。
十分でも長い。
それをわかっていない大人は多い。良子もその一人だろう。
俺は袋を持ち直した。
「何分くらい待ってた」
「……いっぱい」
これはあてにならない。
だが、ひなの様子からすると、少なくとも本人の中ではかなり長く感じている。
「スマホ持ってないのか」
「ない」
「そうか」
当然といえば当然だ。
俺はひなの横に立った。
別に大げさなことをする必要はない。
泣いているわけでもないし、迷子というほど遠くへ来ているわけでもない。
公園の入口にいて、親と一時的にはぐれたようなものだ。
だが、その“ようなもの”を、放って帰るほど俺も薄情ではないらしい。
「ここで待つか」
俺が言うと、ひなが少しだけ近づいてきた。
「うん」
「でも道の真ん中じゃなくて、こっち」
公園の柵の近くへひなを寄せる。
自転車や車から見えやすく、でも危なくない位置。
こういう判断をしている自分に、少しだけあとから驚く。
「おじさん、かえるとこだった?」
「まあな」
「ごめん」
「別に」
その“ごめん”は、子どもの言葉としてかなり正しい方向だった。
むしろ、ちゃんとそう言えるのはえらい。
ひなは俺の持っているコンビニ袋を見た。
「またエナジードリンク」
「うるさい」
「ママもそれ、だめって言ってた」
「だめじゃない」
「でも、また買ってる」
「必要だからだ」
「ほんとに?」
「……たぶんな」
そこでひなが少しだけ笑った。
さっきまで不安そうだった顔が、少し戻る。
その変化に、俺は内心で少しだけ安心した。
数分経った。
思ったより長い。
俺は一度、周囲を見回した。
少し向こうの自販機前。
公園のトイレ側。
細い路地の先。
どこにも良子の姿はない。
これは、少しだけ探した方がいいかもしれない。
だがひなを一人にするのもよくない。
その時、向こうから走ってくる人影が見えた。
「ひな!」
良子だった。
手には小さなスーパーの袋。
息を少し切らしている。
「ごめんごめん!自販機寄ったらレジ混んでて……って、お兄ちゃん?」
気づくのが遅い。
「遅い」
俺はかなり低い声で言った。
良子が一瞬だけ目を丸くする。
「え」
「すぐ戻るって言ったんだろ」
「いや、でもそんなに」
「子どもにとっては長いだろ」
自分でも少し驚くくらい、するっと言葉が出た。
説教する気はなかった。
ただ、言うべきことだと思っただけだ。
良子は数秒だけ黙った。
そのあと、ひなの前にしゃがみこんで頭を下げる。
「ごめん。ほんとに」
ひなは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに小さく頷いた。
「……うん」
「心細かった?」
「ちょっと」
「ごめん」
そこでようやく、場の空気が少し緩んだ。
良子は立ち上がって、今度は俺を見る。
「お兄ちゃん、いてくれたの?」
「見たら一人だったからな」
「……そっか」
その返しはいつもの良子より少し遅かった。
茶化すより先に、本当に助かったと思っている顔だった。
だが、だからこそ居心地が悪い。
「別に大したことじゃない」
「いや、でも」
「おじさん、いっしょにいてくれた」
ひながそう言うと、良子は一瞬だけ視線を落としてから、軽く息を吐いた。
「ありがと」
ちゃんと言われると、困る。
「……別に」
やっぱりそれしか出ない。
良子は少しだけ苦笑した。
「そこは相変わらずだね」
「うるさい」
「でも助かった」
もう一度そう言われて、俺はそれ以上否定できなかった。
三人で家の方へ戻ることになった。
ひなは良子と手をつなぎながらも、時々こちらを見る。
その表情には、さっきまでの不安はほとんど残っていなかった。
歩きながら、良子が少し低い声で言った。
「ほんとごめん。すぐ戻るつもりだったんだけど」
「子ども置いてく時は、つもりで動くなよ」
「……はい」
珍しく素直だな、と少し思う。
良子も、さすがに自覚はあったらしい。
「お兄ちゃん、そういうこと言うんだね」
「何だよ」
「いや、もっと“まあいいんじゃない”って流すかと思った」
「流せない時は流せない」
「ふーん」
その“ふーん”には、からかいと少しの見直しが混ざっていた。
家の前に着くと、ひなが手を離して先に玄関へ向かった。
「おばあちゃんにいう!」
「何を」
「おじさん、いてくれたって!」
やめろ。
報告するな。
だがもう遅い。
ひなは元気よく家の中へ駆け込んでいく。
良子がその後ろ姿を見ながら、小さく笑った。
「これ、お母さんにも褒められるやつだね」
「いらない」
「でも、ちょっとかっこよかったよ」
その言い方はずるい。
真顔ではなく、少し笑いを混ぜているから余計に処理に困る。
「やめろ」
「はいはい」
良子はそう言って先に家へ入った。
俺は玄関の前で、少しだけ立ち止まった。
やったことは大したことではない。
公園の入口で、少し不安そうな姪と一緒にいただけだ。
良子が戻るまで数分、そばにいた。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥に妙な手応えが残っている。
外で。
家の外で。
しかも、かなり自然に動いていた。
考えるより先に、足が止まって、声が出て、ひなのそばに立っていた。
「……外でも、少しなら」
小さくそう呟いてみる。
自信と呼ぶにはまだ弱い。
断言するには頼りない。
それでも、まったくゼロではない感じだけが残る。
玄関を開ける。
中からひなの声が飛んできた。
「おばあちゃん!おじさん、ちゃんといてくれた!」
またその評価か。
俺は少しだけ苦笑しながら、家の中へ入った。
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