「町内会という名の強制イベント」
人は時に、戦う前から負けている。
少なくとも俺は、その日の朝、目を開けた瞬間にそう確信していた。
町内清掃の日である。
何度思い返しても、この言葉の破壊力は高い。
町内。
清掃。
どちらも単体ならまだ耐えられる。
だが二つが合わさることで、近所の人間関係と共同作業と朝の屋外という、こちらの苦手要素が見事に一つへ凝縮される。
しかも前夜のうちに、富子からこう釘を刺されていた。
「明日、ちゃんと起きてなさいよ」
あの言い方が嫌なのだ。
“行きなさい”ではなく“起きてなさい”。
逃げ道があるようでいて、起きた時点で次の段階へ進まされる気配しかしない。
だから俺は、朝から機嫌が悪かった。
布団の上に座ったまま、しばらく動けずにいた。
窓の向こうは晴れ。
明るい。
腹立たしいくらい、清掃日和の天気だった。
「……最悪だ」
小さく呟いても、状況は一切変わらない。
行かないという選択肢は、理論上はある。
あるが、富子と梅子さんの前で一度“ちょっと”と言ってしまった時点で、実質かなり狭まっている。
ここで行かなければ、近所との関係より先に家の中の空気が悪くなる可能性が高い。
それもまた面倒だ。
つまり、結局は出るしかない。
問題は、どう出るかだ。
服装。
これが難しい。
気合いを入れたように見えるのも嫌だし、完全に寝起きのまま放り出されたみたいな格好も嫌だ。
ジャージは動きやすいが、いかにも感がある。
Tシャツ一枚は気温的には正しいが、防御力が低い。
結局、無地のTシャツに薄手のパーカーを羽織ることにした。気温的にはやや無駄だが、精神的な装甲として必要だった。
階下へ下りると、富子はすでに台所で麦茶を用意していた。
「あら、起きたの」
「起きてるの見ればわかるだろ」
「じゃあ行けるわね」
話が速い。
「“起きた”と“行ける”の間にいろいろあるだろ」
「ないわよ。顔洗って、帽子でもかぶって出るだけ」
町内清掃をコンビニへ行くくらいの気軽さで言うな。
富子は俺の前にコップを置いた。
「はい、水分とって」
「何でそんな部活の送り出しみたいなんだよ」
「倒れられても困るから」
それはそうだが、言い方というものがある。
俺は麦茶を一気に飲み干した。
冷たくて少しうまい。
それが余計に腹立たしい。こんな朝にうまい麦茶などあってたまるか。
「何時からだっけ」
「もう始まってる頃じゃない?」
「雑だな」
「梅子さんたち、だいたい早いのよ」
嫌な情報である。
俺は重い足取りで玄関へ向かった。
靴を履く。
帽子はどうするか迷って、結局持つだけにした。
かぶると日差しは防げるが、逆に気合いが入って見える可能性もある。こういうどうでもいい判断に無駄な時間を使うのが、自分でも嫌になる。
ドアを開ける。
朝の空気は、思ったよりまだ涼しかった。
だが明るい。
近所にはすでに人の気配がある。
俺は門を出る前に、一瞬だけ深呼吸した。
「……帰りたい」
まだ家の前である。
それでもすでに帰りたいのだから、先が思いやられる。
町内清掃の集合場所は、近くの小さな公園だった。
歩いて数分。
距離は大したことない。
だが、目的地に近づくにつれて、ほうきや軍手を持った人影が見え始める。
嫌だ。
すれ違うごとに会釈するべきか。
気づかないふりは感じが悪いか。
だが、先に挨拶しすぎるのも不自然ではないか。
そうやって無駄に考えているうちに、公園へ着いた。
「あら、太郎ちゃん!」
梅子さんが即座に見つけた。
最悪のスタートだが、ある意味では助かる。
受付役のような顔をして立っている梅子さんに捕まれば、とりあえず“来た人”として処理されるからだ。
「……どうも」
「来てくれたのねえ。よかったわあ」
その喜び方が重い。
公園の端には、近所の大人たちが何人か集まっていた。
顔見知りではある。
だが、顔見知りと親しいは違う。
向こうからすれば“佐藤さんちの息子さん”くらいの認識だろうが、こちらからすれば十分に緊張する相手だ。
梅子さんが軍手を差し出してくる。
「これ使って」
「……ああ」
「今日は公園のまわりの草抜きと、ごみ拾いと、あとテーブルちょっと運ぶの手伝ってもらえる?」
複数あるな。
「そんなに」
「人手があると助かるのよ」
知っている。
だからこそ来たくなかった。
その時、横から聞き慣れた声が飛んできた。
「あっ、おじさんいた!」
健太である。
お前は本当に、こういう場に元気よく存在するな。
振り向くと、軍手姿の健太が、まるで友達を見つけたみたいな顔で手を振っていた。
その後ろには、ひなもいる。帽子をかぶって、小さなトングみたいなものを持っていた。
「おじさん、ちゃんと来たんだ」
ひなの第一声がそれだった。
「何だその確認」
「来ないかもって思ってた」
「失礼だな」
「でもちょっと思ってた」
健太が笑う。
「オレも」
お前ら。
だが、その二人が普通に話しかけてくるおかげで、他の大人たちとの間に変な緩衝材ができるのも事実だった。
この点だけはありがたい。
梅子さんが手を叩く。
「じゃあ、太郎ちゃんはこっちお願いねえ」
俺は言われるまま、まずは公園横の雑草抜きから始めることになった。
作業自体は嫌いではない。
いや、好きでもないが、少なくとも“何をすればいいか”が明確なら、人付き合いよりはずっとましだ。
しゃがみ込み、草を掴んで引く。
土が少し湿っていて、思ったより抜きやすい。
軍手越しに土の感触が伝わる。
黙って作業していると、何となく呼吸が整ってくる。
作業にはそういうところがある。
会話と違って、正解が見えるのだ。
「お兄ちゃん、その辺まとまったらこっち袋入れて」
良子の声がした。
いたのか。
見ると、良子も少し離れたところでひなたちの面倒を見ながらごみ袋を持っていた。
「何でお前まで」
「何でって、ひな連れてるからでしょ」
「来なくてよかったのに」
「来ないとお兄ちゃんが逃げるかもしれないし」
ひどい信頼だ。
だが、まあ、完全否定もできない。
草抜きが一段落すると、今度は公園脇に置かれていた折りたたみテーブルを運ぶことになった。
これも、作業としてはわかりやすい。
持つ。運ぶ。置く。終わり。
だが一人では少し重いなと思った瞬間、近所の男の人が軽く声をかけてきた。
「そっち持てる?」
この程度の会話でも、俺にはわりと負荷がある。
「……ああ、大丈夫です」
「じゃ、こっちで」
短い。
助かる。
こういう、用件だけで終わる人はありがたい。
二人でテーブルを運ぶ。
位置を合わせる。
がたつきを直す。
「こういうのは慣れてるね」
相手が何気なく言う。
「いや、別に」
「配線とか片づけ、好きそうな感じする」
何だその観察。
だが、否定するのも面倒で、曖昧に笑うしかなかった。
会話がそこで終わったのも助かった。
その後も、細かい仕事はいくつかあった。
ごみ袋の口を開く。
使った道具をまとめる。
ペットボトルと燃えるごみを分ける。
誰かが持ってきた段ボールを折りたたむ。
不思議なもので、そういう“ちょっとした整理”が必要な場面になると、俺はわりと動けた。
どこに何を置けば邪魔にならないか。
どうすれば次が楽か。
家の中の雑務と根っこが少し似ているのかもしれない。
その一方で、雑談は相変わらず駄目だった。
「暑いですねえ」と言われて「そうですね」と返し、そのあとが続かない。
「最近この辺も変わりましたねえ」に「まあ」としか返せない。
世間話というものは、本当に何をどう膨らませればいいのかわからない。
だが、完全に孤立もしなかった。
それはたぶん、健太とひなが時々話しかけてくるからだ。
「おじさん、こっち草多い!」
「おじさん、これごみ?」
「おじさん、それ持てる?」
いちいちうるさいが、その“おじさん”で繋いでくる感じは、他の大人たちとの気まずさを少し薄めた。
ひなは途中でペットボトルのキャップ拾いに夢中になり、健太はなぜかトングの扱いに変なこだわりを見せていた。
子どもというのは、こういう共同作業ですら遊びの延長に変えるのだからすごい。
作業が終わりかけた頃には、さすがに汗をかいていた。
軍手の中が暑い。
パーカーは完全に失敗だった。途中で脱いで腕に引っかけている。
空はもうしっかり高く、朝の涼しさは消えていた。
「はい、お茶どうぞー」
梅子さんが紙コップを配ってくる。
俺も一つ受け取った。
冷たい麦茶。
こういう時だけ、異様にうまい。
「助かったわあ、太郎ちゃん」
梅子さんが満足そうに言う。
「来てくれてほんとよかった」
「……どうも」
こういう感謝は、真正面から受けると少し困る。
別に大したことはしていない。
草を抜いて、テーブルを運んで、少し片づけただけだ。
だが、その“だけ”が集団作業ではちゃんと効くのだろう。
良子が横からにやにやしている。
「やるじゃん、お兄ちゃん」
「何だよ」
「ちゃんと働いてた」
「失礼だな」
「いや、ほんとに」
ひなまで頷く。
「うん。ちゃんといた」
「そこ評価ポイントなのか」
「だって来ないかもって思ってたし」
さっきからそればかりだな。
だが、否定しきれないのが悔しい。
健太はさらに無遠慮だった。
「おじさん、思ったより普通だったね」
「何だその言い方」
「もっとこう、端っこでずっと黙ってるだけかと思ってた」
「だいたい合ってるだろ」
「でもテーブルとかやってたし」
子どもたちなりに、ちゃんと見ているらしい。
解散が近づき、近所の大人たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
俺もそろそろ離脱したかったが、最後にほうきやトングをまとめていると、さっきテーブルを一緒に運んだ男の人が軽く言った。
「また何かあったらよろしく」
冗談半分、事実半分くらいの口調だった。
俺は反射的に、「いや」と言いかけてやめた。
「……まあ、できる範囲なら」
そんな無難な返ししか出てこない。
そしてそういう返しをした時点で、生活圏の人間関係というやつはまた少しだけ前へ進んでしまうのだろう。
帰り道、ひなが俺の横へ来た。
「おじさん」
「何」
「ちゃんといたね」
またそれである。
「何だよ、その褒め方」
「だって、ほんとにいた」
ひなは真顔だった。
たぶん子どもなりの最大限の評価なのだろう。
来るかどうかわからないと思っていた人が、ちゃんと来て、途中で帰らず、少し役に立っていた。
それが“ちゃんといた”になる。
「……まあな」
俺がそう返すと、ひなは少し笑った。
良子がそれを見て、肩をすくめる。
「よかったじゃん。ひなに出席認定されて」
「何だそれ」
「今日のところは合格ってこと」
採点される覚えはない。
だが、悪い気はしなかった。
家へ戻ると、玄関に入った瞬間に疲れがどっと来た。
靴を脱ぐ。
冷房の空気が当たる。
生き返る。
「はあ……」
深く息を吐く。
富子がすぐ言った。
「ちゃんと行けたじゃない」
「行けたけど、疲れた」
「そりゃ動いたもの」
「そういう疲れ方じゃない」
説明するのも面倒で、それ以上は言わなかった。
二階へ上がる。
自室へ入る。
ドアを閉める。
薄暗さ。
静けさ。
ようやく自分の世界だ。
椅子に座り、しばらく動けなかった。
行きたくなかった。
朝の時点では、本当に嫌で嫌で仕方なかった。
だが、終わってみれば、思ったほどひどくはなかった。
もちろん消耗はした。
世間話は相変わらず苦手だった。
近所の視線も、子どもの声も、朝の光も、全部疲れる。
それでも、完全敗北ではなかった。
「……ちゃんといた、か」
ひなの言葉を思い出して、少しだけ笑いそうになる。
褒め言葉としてはだいぶ独特だ。
だが、今日はそれで十分な気もした。
町内会という名の強制イベント。
それでも俺は、一応、そこにいた。
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