「父からのビデオ通話」
親子というものは、年を取れば取るほど自然に話せるようになる――
そんなことを言う人がたまにいる。
だが、少なくとも俺の知る限り、それはかなり怪しい。
子どもの頃は、親は親だった。
絶対的で、生活の中心で、機嫌や都合を読む必要はあっても、関係そのものに迷うことはあまりなかった。
だが大人になると違う。
親は親のままなのに、こちらは中途半端に年を取り、うまくいかなかった時間だけが増える。
昔みたいに甘えるわけにもいかない。
かといって、対等な大人同士みたいに話せるかと言えば、それもまた難しい。
結果、気まずい。
そしてその日、俺は、その気まずさをスマホの小さな画面越しに味わうことになった。
午後だった。
夏の終わりにしては妙に蒸し暑く、エアコンを切るとすぐ空気が重くなる。
俺は一階のリビングで、珍しくソファの端に座っていた。
理由は、富子に頼まれて扇風機の首振りが変だとか、テレビのリモコンの効きが悪いとか、そのへんを見ていたからだ。最近、家の中の機械関係だけは妙に俺へ回ってくる。
作業はだいたい終わり、あとはリモコンの電池交換だけだった。
ひなは今日は来ていない。
良子もいない。
家の中は富子と俺だけで、珍しく静かだった。
その時、テーブルの上の富子のスマホが鳴った。
着信音は、何度も聞いたことのあるやつだ。
富子は台所で手を洗っていて、すぐには取れない。
俺はちらっと画面を見た。
父さんだった。
佐藤恒一。
俺の父。
今も単身赴任先にいて、月に一度か二度くらい、こうして連絡を寄越す。
内容はだいたい事務連絡か、生存確認か、たまの荷物の予告だ。
「母さん、父さん」
俺が声をかけると、台所から富子が返した。
「出といて」
「何で俺が」
「手が濡れてるの!」
雑だな。
とはいえ、そのまま鳴らし続けるのも変だ。
俺は仕方なくスマホを手に取った。
着信は通話アプリ経由だった。
音声だけかと思って画面を開いた瞬間、俺は眉をひそめた。
ビデオ通話。
「おい……」
思わず低い声が出る。
普通の電話ならまだいい。
だが映像はまずい。
こっちは今、家着だし、髪も微妙だし、顔だって冴えない。そんなものはいつものことだが、それをあえて父親に向けて可視化する必要はない。
だが拒否する間もなく、富子が台所から言う。
「早く!」
俺はかなり嫌そうな顔のまま、通話を取った。
画面に映ったのは、見慣れたような、久しぶりのような父の顔だった。
少し日焼けしている。
背景は単身赴任先の社宅か、会社の休憩室か、そのへんだろう。
父は一瞬だけ画面を見て、そして微妙に目を細めた。
「……太郎か」
第一声がそれだった。
「……そうだけど」
もっと気の利いた返しはないのか、と自分でも思ったが、なかった。
数秒の沈黙。
気まずい。
画面越しなのに、ちゃんと気まずい。
これが親子の厄介なところだ。距離があっても、ちゃんと気まずい。
そこへ、富子がようやく台所から出てきた。
「あら、ごめんごめん。手ぇ離せなくて」
富子は何でもない顔でスマホを受け取る。
その自然さが少し恨めしい。
俺だけが余計にぎこちなく見えるではないか。
「そっちはどう?」
「まあまあだ」
「暑い?」
「暑いな」
そこからは、いつもの夫婦の短い会話が始まった。
体調。
食事。
送り物。
大したことのない内容を、短い言葉で確認していく。
俺はもう自室へ戻ろうかと思った。
ここにいても、たぶん役目はない。
だが、まさにその時だった。
「太郎、ちょっと待て」
父が画面の向こうで言った。
俺は足を止めた。
「何」
「そのままそこにいろ」
命令口調でもない。
だが、妙に断りづらい言い方だった。
富子が俺を見る。
“ほら”みたいな目だ。
何だその“ほら”は。
俺はソファの端へ戻り、半分だけ画面へ入る位置に座った。
父は一瞬だけこちらを見て、それからごく普通に言った。
「元気か」
その質問が、一番困る。
元気ではない、と答えるほどでもない。
元気だ、と胸を張るのも違う。
日々をどうにか回してはいるが、その状態を“元気”と呼んでいいのかは微妙だ。
「……まあ」
結局その返事になる。
父はそれ以上追及しなかった。
そこはありがたい。
昔から父は、踏み込み方がわからない人なのだろうと思う。だからこそ、不器用に浅いところで止まる。こっちもそれに合わせて浅く返す。そんな親子だ。
しばらくして、父が少し言いにくそうに口を開いた。
「この前、送ったやつ」
「荷物?」
「ああ」
「来たよ」
「ジュース飲んだか」
「あれ、まだ」
「身体にいいらしい」
らしい、なのかよ。
思わず心の中で突っ込んだ。
父が送ってくる健康系のものは、たいてい“誰かに勧められたらしい”止まりで、自分で深く検証した気配はあまりない。
だが、そのずれ方が逆に父らしかった。
「そうか」
俺がそう返すと、父は少しだけ間を置いたあと、別の話題へ移った。
「……あとな」
「何」
「スマホの画面が、この前から何か変なんだ」
俺は顔を上げた。
富子も小さく笑う。
「ほらね、またそれよ」
「何が」
「機械の話なら、あんたの方が早いでしょ」
そういう流れか。
たしかに、父は昔からそういうのが苦手だった。
パソコンもスマホも、“仕事で必要だから使う”以上のことはほとんどしない。
設定や更新やアプリの権限だの、そのへんになると急に弱くなる。
父はスマホを画面に近づけた。
「何か変な表示が出る」
「見せて」
そこで、俺の声のトーンが少しだけ変わったのが自分でもわかった。
機械の話になると、余計な感情が一旦脇へどく。
相手が父でも、配達員でも、近所の人でも、その点はあまり変わらない。
父が映した画面は、単純だった。
ストレージ不足の警告と、アプリ更新の通知が重なっているだけだ。
「これ、容量足りてないだけ」
「ようりょう?」
「写真か動画が多いんじゃないか」
「そんなに撮ってないぞ」
「見せて」
父は言われた通りスマホを操作しようとするが、そもそもどこを押していいかわからないらしく、画面がぶれる。
富子が横で笑いを噛み殺している。
「母さん笑うなよ」
「だって、あんた急に普通に喋るじゃない」
余計だ。
俺は父に一つずつ指示した。
「その歯車みたいなの押して」
「違う、それ戻るやつ」
「もう一回」
「そう、それ」
「次、下へスクロールして」
父は不器用ながらも、ちゃんと従う。
そのやり取りは少しだけ妙だった。
親子なのに、会話の一番まともな成立が“設定画面の誘導”である。
だが、成立しないよりはずっといい。
「写真多いな」
俺が言うと、父は少しだけ気まずそうにした。
「送ろうと思ってな」
「何を」
「景色とか」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
単身赴任先の風景でも撮って、家族へ送ろうとしていたのだろうか。
その発想自体は少し意外だった。父はそういうことを積極的にする人ではなかったからだ。
富子が横から言う。
「送ればいいのに」
「やり方がな」
「今、太郎が教えてるじゃない」
父は小さく咳払いした。
「だから聞いてるんだ」
それはそうだ。
俺は変に深読みするのをやめて、淡々と作業を続けた。
「とりあえず、いらない動画消せばだいぶ空く」
「あと更新はWi-Fiのあるとこでやれ」
「通知は消していい」
父は「そうか」「ああ」と短く返す。
会話は相変わらず長くない。
だが、途切れもしていない。
十分ほどで、一通りの問題は片づいた。
「これでたぶん出なくなる」
「そうか」
「また出たら、アプリ整理しろ」
「わかった」
そこで、通話の空気が少しだけ静かになった。
機械の話が終わると、また親子の気まずい沈黙が戻るのかと思った。
だが父は、その前にぽつりと言った。
「助かった」
俺は少しだけ目を瞬いた。
「……別に」
「そう言うな」
父は昔から、たまにだけ、妙に真っ直ぐな言い方をする。
頻度が低いから、こっちが慣れていない。
富子も何も言わず、そのやり取りをそのまま流した。
そして通話を切る直前、父が何気ない調子で言った。
「今度、そっち戻るかもしれん」
俺は反射的に顔を上げた。
「戻る?」
「まだ決まってないがな。こっちの区切りがついたら」
心臓が少しだけ落ち着かなくなる。
父が帰ってくる。
それは別に異常なことではない。
もともとこの家の人間なのだから、帰ってきて何もおかしくない。
それでも、いざ具体的に言われると、気まずさの密度が一気に上がる。
「……そうか」
結局、またそれしか言えない。
父もそれ以上は何も言わなかった。
「まあ、決まったらまた連絡する」
「ああ」
短い。
短いが、それで通話は終わった。
画面が暗くなる。
リビングに、エアコンの音だけが残る。
俺はしばらくそのまま座っていた。
富子がスマホをテーブルへ置き、何でもない顔で台所へ戻る。
「別に普通でしょ」
背中越しに、そう言った。
俺はその言葉に、少しだけ眉を寄せた。
「普通が一番難しいんだよ」
気づけば口に出ていた。
富子は振り向かずに言う。
「考えすぎなのよ、あんたは」
「そっちは考えなさすぎだろ」
「二人分でちょうどいいじゃない」
その理屈はずるい。
俺はソファに深く座り直し、天井を見上げた。
父と話した。
ちゃんと、と言っていいかは微妙だが、一応話した。
元気か、と聞かれて、まあ、と答えた。
スマホの設定を教えた。
助かった、と言われた。
それだけだ。
たったそれだけのこと。
だが、その“たったそれだけ”が、思ったより疲れる。
同時に、思ったより悪くもなかった。
気まずさはある。
埋まっていないものもある。
昔みたいに自然に話せるわけではないし、たぶん今後もそう簡単にはならない。
それでも、機械の話だけなら少し会話が続くとか、父は父でこちらに何か送りたいと思っていたらしいとか、そういう小さな事実はいくつか残った。
俺は立ち上がり、スマホをポケットへ入れた。
「部屋戻る」
「はいはい」
富子の返事は軽い。
二階へ上がる。
自室のドアを閉める。
薄暗い、自分の空間。
椅子に座って、ふと机の上のノートPCを見た。
父のスマホ設定を教えた時みたいに、機械の話なら妙な沈黙が少し減る。
そういう接点しかないのかもしれないし、今はそれで十分なのかもしれない。
「……戻る、ね」
独り言が漏れる。
父が帰ってきたら、この家の空気は少し変わるだろう。
それを歓迎できるほど素直ではない。
だが、拒絶するほどでもない。
何とも言いづらい場所に、自分がいる。
俺はしばらく黙ったあと、ノートPCを開いた。
画面が光る。
いつもの場所。
いつもの巡回先。
だが今日は、ネットに入る前に、少しだけ父のスマホ画面を思い出していた。
無駄に写真が溜まっていたのは、本当に景色を送ろうとしていたからなのか。
それとも、ただ消し方がわからなかっただけか。
たぶん両方だろうな、と俺は思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




