「梅子さんは逃がしてくれない」
善意ほど、断りにくいものはない。
悪意ならまだいい。
警戒できるし、距離も取れる。
営業なら営業、宗教なら宗教、押し売りなら押し売り。人は相手に明確な“嫌な理由”があれば、意外ときっぱり拒絶できるものだ。
だが、善意は違う。
向こうはただ親切なだけ。
こちらを気にかけ、話しかけ、ついでに巻き込む。
そこに悪意が一ミリもないからこそ、逃げる側だけが妙に感じが悪くなる。
そして佐藤家の周辺には、その善意を極めて自然に振るってくる人物が一人いる。
田村梅子。
近所のおばちゃんにして、善意の圧そのもの。
その日の午後、俺は本当にただ“空気を吸いに出ただけ”だった。
いや、正確に言うなら、コンビニへ行くかどうかを決めかねて、いったん玄関の外気温を確認しに出たのである。
これは重要な工程だ。
夏場の外出は、日差しと湿度と道路の照り返しで難易度がだいぶ変わる。家の中から窓越しに見るのと、実際に玄関を出るのでは情報量が違うのだ。
だから俺は、パーカーも着ず、財布も持たず、本当に数十秒だけのつもりで門の外へ出た。
玄関先。
日差しは少し傾いている。
空気はまだ暑いが、真昼よりはまし。
風もわずかにある。
「……微妙だな」
今からなら行けなくもない。
だが積極的に行きたいほど快適でもない。
そういう、一番判断に困る気候だった。
俺が腕を組んで空を見ていた、その時。
「あら、太郎ちゃん」
終わった。
背中に軽く冷たいものが走る。
この声を、俺は知っている。
知っているどころではない。子どもの頃から知っている。
だからこそ厄介なのだ。
振り向くと、やはりそこには田村梅子がいた。
日よけ帽子。
買い物帰りらしい手提げ袋。
顔いっぱいに、悪意ゼロの笑顔。
「珍しいわねえ、こんな時間に外で」
「……どうも」
それしか出ない。
梅子さんは門の前まで来ると、本当にただ世間話をする調子で言った。
「暑いわねえ」
「そうですね」
「でも風があるからまだましね」
「まあ」
「富子さん元気?」
「元気です」
ここまではまだいい。
この程度の会話なら被害は軽い。
だが、梅子さんの会話はここで終わらない。
終わらないどころか、むしろここからが本番である。
「太郎ちゃん、最近よく見るわねえ」
やめろ。
その“最近よく見る”は、たぶん前向きな意味なのだろう。
だがこちらにとっては、“生活圏で観測され始めている”という警告に近い。
「……そうですか」
「前はほんと見なかったものねえ」
比較やめろ。
「健太くんとも話してたでしょ、この前」
情報が早い。
何なんだこの近所ネットワークは。
あの小学生、もう報告したのか?
いや、健太自身が言ったのではなく、庭先での会話を誰かが見ていた可能性もある。生活圏とはそういう場所だ。見ようとしなくても見えてしまう。
「まあ、ボールが入って」
「そうそう、田中さんとこの子ねえ。元気でしょう」
「元気ですね」
「太郎ちゃん、子ども相手だと案外普通なのね」
その評価、最近どこでもされるな。
梅子さんは悪気なく続ける。
「よかったわあ。子どもってね、ちゃんと見てるのよ。変な人か、やさしい人か」
俺は一瞬だけ黙った。
変な人、はともかく。
やさしい人、という言葉がこのタイミングで来るのは少し不意打ちだった。
「……別に、やさしくは」
「あら、やさしいじゃない。ひなちゃんにも、健太くんにも」
断定された。
俺は返事に困って視線を逸らした。
そこで切れればよかった。
だが、善意の会話はいつだってこちらの逃げ道を薄くする。
梅子さんは買い物袋を持ち直しながら、さらりと言った。
「そういえば今度、町内の清掃あるのよ」
来た。
話題転換が滑らかすぎて、一瞬対応が遅れる。
「え」
「ほら、月末の土曜。公園のまわりとか、ごみ集めたり草抜いたり」
「……ああ」
知らない。
いや、回覧板か何かで母さんは知っていたのかもしれないが、俺の中では完全に初耳だった。
「若い人がいると助かるのよねえ」
梅子さんは本当に何でもない顔で言う。
「最近、出てきてくれる人少ないし。太郎ちゃん、ちょっと顔出さない?」
軽い。
“ちょっと顔出さない?”の軽さで言う話ではない。
町内清掃などというものは、俺にとってほぼ強制屋外合同イベントである。知らない大人、気まずい挨拶、作業、世間話、全方向のリスクが高い。
「いや、その……」
すぐには返事が出ない。
この時、断るのが正しい。
きっぱり無理ですと言えばいい。
だが、それができれば苦労しない。
梅子さんはさらに畳みかける。
「一時間くらいですぐ終わるしねえ」
一時間が長いんだよ。
「朝のうちだからまだ涼しいし」
朝だから嫌なんだよ。
「健太くんも来ると思うし」
だから何だよ。
内心の反論は次々浮かぶのに、口から出るのは曖昧な音ばかりだった。
「……まあ、ちょっと」
その瞬間、自分で“あっ”と思った。
違う。
今のは違う。
“ちょっと”というのは、行くと言っているのに限りなく近い。
だが梅子さんの表情はぱっと明るくなる。
「あら、ほんと?」
「いや、だからその、行けたら……」
慌てて修正を入れる。
だが善意の人は、前向きな部分をよく聞く。
「助かるわあ。富子さんも喜ぶわよ」
勝手に情報を共有するな。
その時だった。
玄関の引き戸が開く音がした。
「何してんの、あんた」
富子である。
最悪だ。
富子はエプロンのまま玄関から出てきて、俺と梅子さんを見比べる。
その表情は、状況を一秒で把握した人間のそれだった。
「あら、富子さん」
「こんにちは」
「今ねえ、月末の清掃の話してたのよ。太郎ちゃん、ちょっと顔出してくれるって」
言ってない。
いや、完全には否定しきれないが、その表現はかなり寄っている。
俺が口を開く前に、富子があっさり言った。
「ああ、そうなの。よかった」
「よくない」
即座に割り込む。
「何がよ」
「まだ確定してない」
「でもちょっと行けそうなんでしょ?」
「その“ちょっと”はそういう意味じゃない」
「行けたら、くらいの感じですけど……」
俺が弱々しく訂正すると、梅子さんはうなずいた。
「ええええ、もうそれで十分よ。顔見せてくれるだけでいいの」
よくない。
それが一番危ない。
富子まで乗ってくる。
「どうせ家にいるんだから、一時間くらい行ってきなさいよ」
「その理屈やめろ」
「理屈じゃなくて事実でしょ」
強い。
しかも近所の人の前でこの会話をされると、こちらだけが変に抵抗している人間になる。
圧倒的に分が悪い。
梅子さんが柔らかく畳みかける。
「無理しなくていいけどねえ、でも若い人が一人いるとほんと違うのよ」
「若い……」
そこに反応するのも違う気がしたが、三十九歳を近所の七十代に“若い人”として計算されるのは妙な感覚だった。
富子がまとめるように言う。
「じゃあ、当日ちゃんと起きてればいいのよ」
「起きてれば、って」
「起きてなさいよ」
いつの間に条件付き参加みたいな流れになっている。
俺は何とか抵抗しようとした。
「いや、でもその日、体調とか」
「悪いの?」
富子が真顔で聞く。
「いや、今は」
「じゃあ大丈夫でしょ」
理詰めで逃げ道を塞いでくるな。
梅子さんは本当に嬉しそうだ。
「じゃあ、また近くなったら声かけるわねえ」
近くならなくていい。
だが、その言葉を口に出せる空気ではなかった。
「……どうも」
結局、それしか言えない。
梅子さんは満足げに帰っていった。
買い物袋を揺らしながら、途中で振り返ってまで手を振ってくる。
善意100%。
本当にどうしようもない。
姿が見えなくなったところで、俺は大きく息を吐いた。
「何でああなるんだよ……」
富子が呆れたように言う。
「何でって、普通の流れでしょ」
「どこが」
「近所の行事にちょっと顔出すだけじゃない」
「“ちょっと顔出すだけ”を軽く言うなよ」
「そんな大げさに」
「大げさじゃない。清掃だぞ。朝だぞ。町内の人間がいるんだぞ」
「ゴミ出しできるんだから平気でしょ」
「一緒にするな」
まったく別の話である。
ゴミ出しは短距離単独任務だ。
町内清掃は合同ミッション。危険度の種類が違う。
だが、富子にはその違いがどうしても伝わらないらしい。
「まあいいから。出られるなら出なさい」
「まだ行くって決めてない」
「さっきほとんど決まってたじゃない」
「決まってない。あれは流された」
「流される方が悪いの」
ごもっともだが、正論で人を刺すな。
富子はそれだけ言うと家の中へ戻っていった。
玄関が閉まり、外に俺だけが残る。
夕方の風が少しだけ吹く。
さっきまで確認していた気温だの外出判断だの、そんなものはもうどうでもよくなっていた。
頭の中を占めるのは、月末の土曜、朝、清掃、町内会、そのあたりの嫌な単語ばかりだ。
「勝手に任務が発生してるじゃねえか……」
呟いても、状況は何も変わらない。
俺は重い足取りで二階へ戻った。
自室のドアを閉める。
椅子に座る。
さっきまで気にしていたコンビニの是非など、完全に頭から飛んでいた。
代わりに、脳内ではありもしないシミュレーションが始まる。
当日何を着るか。
どこに立てば目立たないか。
挨拶は必要か。
梅子さん以外に話しかけられたらどう返すか。
健太が来たらどうするか。
考えれば考えるほど気が重くなる。
スマホが震えた。
白狼77からだった。
『生きてるか』
何で今なんだ。
『死にかけ』
と返す。
『またレスバ?』
『町内清掃が発生した』
数秒後。
『草』
『それはご愁傷さま』
ご愁傷さま、ではない。
まだ終わっていない。
始まってすらいないのに、精神だけ先に消耗しているのが問題なのだ。
さらに送る。
『近所の善意が一番きつい』
『断れない』
白狼77は即座に返す。
『お前そういうの弱すぎ』
『嫌なら嫌って言えよ』
できれば苦労しない。
ネットの向こうからなら何とでも言えるのだ。
だが、その通りであることも否定できなくて腹が立つ。
俺はチャットを閉じ、椅子にもたれた。
善意ほど、断りにくい。
そして断れない善意は、だいたい未来へ向かってじわじわ効いてくる。
月末の土曜。
朝。
町内清掃。
今のところ、それらの単語はもう完全に俺の精神へ定着していた。
「……最悪だ」
今日二回目か三回目かのその独り言は、部屋の薄暗さに吸い込まれていった。
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