「最強の虫除け作戦」
夏という季節は、人類に試練を与えすぎる。
暑い。
汗をかく。
外は眩しい。
近所の子どもは元気だ。
おまけに虫まで活動的になる。
冷静に考えてほしい。
人間が快適に生きるための条件が一つも揃っていない。
にもかかわらず、世間はなぜか夏をイベントの季節として持ち上げる。祭りだ、花火だ、キャンプだ。正気とは思えない。
その日の午後も、俺は二階の自室で、エアコンの恩恵と薄暗さに守られながら、静かに生きていた。
外は蝉がうるさい。
窓の向こうでは、陽射しが庭の土を白っぽく照らしている。
こういう日は、無理に外へ出るべきではない。部屋の中で文明に感謝しながら、動画でも見て過ごすのが最も合理的だ。
そのはずだった。
下の方から、子どもの大声がした。
「うわあああっ!」
健太だ、とすぐわかった。
最近あいつは、佐藤家の前だろうが庭の近くだろうが、かなりの頻度で出没する。
本人の中ではたぶん“近所のおじさんの家”くらいの軽さなのだろうが、こちらとしては生活圏への侵入頻度が高すぎる。
さらに続けて、ひなの声。
「なに!?なに!?」
ああ、来ているのか。
今日は良子とひなも実家にいるらしい。
その時点で、嫌な予感はかなり濃くなった。
直後、一階から富子の声が飛んでくる。
「太郎ー!」
はい出た。
「何」
「ちょっと見てきて!」
「何を!」
「虫!」
範囲が広い。
虫。
それだけで何をどうしろというのか。
とはいえ、下で健太とひなが同時に騒いでいる時点で、放置しても収まらないことは想像できた。
俺は椅子の上で数秒だけ考えた。
行きたくない。
非常に行きたくない。
だが、子どもの騒ぎは放置すると増幅する。虫相手の悲鳴は、そのうち近所の大人まで巻き込む危険がある。
つまり、今ここで最短経路で沈静化させるのが、結果的には一番被害が少ない。
「……最悪だ」
俺はそう呟いて立ち上がった。
階段を下りる。
玄関の方へ向かう途中で、ひなの半泣き未満の声と、健太の興奮した声が入り混じって聞こえてきた。
「でっかいって!」
「どこ!?」
「そこ!そこ!うわ動いた!」
「やだあ!」
うるさい。
玄関を開けると、庭先で二人が妙に距離を取ったまま、何かを見ていた。
健太はしゃがみ込み気味で、でも近づきたくはないらしい半端な腰の引け方をしている。
ひなは一歩後ろで良子の足にしがみついていた。
良子はというと、遠くから見守る姿勢で、こちらに気づくとすぐ言った。
「ほら、お兄ちゃん来たから」
「何で俺で解決する前提なんだよ」
「何かしてくれそうだから」
「期待値が雑すぎる」
富子も台所の窓から顔を出している。
「セミよ、たぶん!」
「たぶんで呼ぶな」
庭の隅を見る。
コンクリートと土の境目あたりで、黒っぽいものがばたついていた。
セミだ。
しかも、ひっくり返りかけてバタバタする、一番人の神経に悪い状態のやつである。
「あー……」
思わず嫌そうな声が出た。
健太がすぐ反応する。
「おじさん、いける!?」
「いけない」
「えっ」
「何で俺がセミに強い前提なんだよ」
「だって大人じゃん」
その理屈は雑だが、社会はだいたいそういう雑な期待で大人を使う。
ひなが小さな声で言った。
「おじさん、こわいの?」
「……怖くはない」
嘘ではない。
怖いというより、嫌なのだ。
あの急に飛ぶ感じとか、無駄に音が大きい感じとか、動きの読めなさとか、総合的にかなり嫌い寄りである。
だがここで“怖い”と認めると、子どもたちの信頼が妙に揺らぎそうなのもまた事実だった。
俺は少しだけ眉をしかめて周囲を見回した。
素手は論外。
近づきすぎるのも嫌だ。
となると、何か道具がいる。
「ちょっと待て」
俺は玄関へ戻り、靴箱の上と物置近くを確認した。
古いチラシ、空き箱、使っていないプラスチックの容器。
よし、これでいい。
手に持って戻ると、健太が目を輝かせる。
「おお、なんか始まりそう」
「始まるのは駆除じゃなくて退避誘導だ」
「何それ」
「知らなくていい」
ひなは良子の足にしがみついたまま聞いてくる。
「おじさん、それでどうするの」
「箱で上から押さえて、チラシで下を入れて、そのまま外へ持っていく」
「できるの?」
「できなかったらもっと面倒になる」
それは本心だった。
俺はセミへ近づいた。
距離感が難しい。
こちらが近づくと、向こうも急に元気になる可能性がある。死んだふりかもしれないし、ただ弱っているだけかもしれない。セミという生き物は、そのへんの見極めが雑だ。
「おじさん、右!右!」
「うるさい」
「動いたって!」
「見えてる」
「ひなもうやだ!」
「じゃあ少し離れろ!」
後ろがうるさすぎる。
だが、子どもというものはこういう時に黙ってくれない。
むしろ実況と応援で状況を悪化させる。そこまで含めて対処しなければならないのが、大人のつらいところだ。
俺はタイミングを見て、プラスチック容器を上からかぶせた。
セミがばたっと暴れた。
「うわっ!」
健太が一番大きい声を出した。
ひなは本気で半歩下がり、良子まで肩をすくめた。
「落ち着け!」
俺が一番落ち着いていなかった。
だが、容器の中には一応収まっている。
ここでチラシを下へ滑り込ませる。
この“滑り込ませる”が重要なのだが、地面の小さな段差で意外とうまくいかない。
「おじさん、それむずくない?」
「今さら言うな」
チラシの端が少し折れる。
セミがまた暴れる。
俺の心拍も上がる。
「……っ、よし」
何とか下へ入った。
容器とチラシで挟み込み、そのまま持ち上げる。
中でセミが少しばたつくが、外へ出せば終わりだ。
「うわ、すげー!」
健太が素直に言う。
ひなも少しだけ前へ出てきた。
「つかまえた……」
「捕獲というか、移送だな」
「いそう?」
「外に出す」
「へえ」
説明している場合ではない。
俺はそのまま庭の端まで行き、塀の向こうの木がある方へ容器を傾けた。
数秒。
動かない。
「……あれ?」
死んでいるのか。
いや、さっきまで元気だったろ。
そう思った瞬間、セミが突然ものすごい勢いで飛び立った。
「うわああああっ!」
俺が叫んだ。
健太とひなではない。
俺だ。
セミは俺の顔のすぐ横を通り抜け、ばたばたと低空で飛んだあと、なぜか一瞬だけ俺の肩に止まりかけた。
「うわっ、うわっ、待て待て待て!」
俺は半分本気で身をよじった。
健太が爆笑する。
「おじさんが一番びびってるじゃん!」
「うるさい!」
ひなまで、さっきまで怖がっていたくせに笑っている。
「おじさん、すごいのにへんなの」
「その感想やめろ!」
良子は腕を組んだまま笑いをこらえきれていない。
「最後の最後で全部台無しじゃん」
「台無しじゃない!ちゃんと外へ出しただろ!」
「そのあと一番叫んでたけどね」
富子まで窓から言う。
「でもまあ、いなくなったならいいわよ」
評価が雑すぎる。
俺はチラシと容器を持ったまま、その場で数秒荒い呼吸を整えた。
理屈ではわかっている。
セミは別に俺を攻撃したいわけではない。
ただ飛んだだけだ。
だが、そういう問題ではない。急に顔の近くを通るな。羽音を立てるな。肩に止まろうとするな。
健太はまだニヤニヤしている。
「でもおじさん、意外と強いじゃん」
またその言い方か。
「意外と、をやめろ」
「だって、もっとこう、後ろから見てるだけかと思った」
「失礼だな」
「でも何かちゃんとやったじゃん」
ひなもこくこく頷く。
「うん。おじさん、やった」
その雑な評価は、微妙に嬉しくて困る。
良子が口を挟む。
「まあ、ちゃんとやったのはえらいけど、最後の叫び声で全部持ってかれたね」
「持ってかれてない」
「持ってかれてたって。ひなより叫んでたし」
「そんなことはない」
「うそ。すごかった」
ひなまで乗るな。
俺はため息をつき、容器とチラシを玄関へ戻した。
冷静に考えれば、やったことは大したことではない。
庭先にいたセミを外へ出しただけだ。
だが、子どもたちの中では十分“大人が何とかした”扱いらしい。
それが少し妙だった。
健太は帰り際まで、まだ面白そうにこちらを見ていた。
「今度また何かいたら呼ぶね!」
「呼ぶな」
「何で」
「何ででもだ」
「でも来るじゃん」
返しに困ることを言うな。
健太は笑いながら去っていった。
元気すぎる。
ひなはその後も少しだけ庭を見ていたが、もう怯えた様子はなかった。
むしろ、さっきの騒ぎそのものがイベントみたいに楽しかったらしい。
「おじさん、さっきのどうやったの?」
「どうやったって、箱かぶせて紙入れただけだ」
「でもすぐやった」
「すぐじゃない。嫌だった」
「でもやった」
「……まあな」
ひなはそこで、小さく笑った。
「おじさん、へんなのに、ちょっとかっこよかった」
感想が複雑すぎる。
良子が横で吹き出す。
「何その評価」
「ほんとだよ」
だが、否定しきるほど悪くもなかった。
俺は玄関先でスリッパを履き直しながら、小さく息を吐いた。
虫は嫌いだ。
今日それは改めて確認できた。
ただ、嫌いだから何もしない、で終わらなかったこともまた事実だった。
富子が窓を閉める前に一言だけ言う。
「助かったわ」
それだけ。
大げさではない。
けれど、そのくらいの温度がちょうどいい。
俺は何も言わず、二階へ戻った。
部屋へ入る。
ドアを閉める。
ようやく静かになる。
椅子に座り直して、さっき止めた動画を再生しようとした。
だが、数秒でまた止めた。
「……意外と、ねえ」
健太の言い方が耳に残っていた。
失礼な評価ではある。
だが、近所の子どもから見れば、たしかに俺は“ずっと家にいる変なおじさん”くらいの認識なのだろう。
そこへ少しだけ“何かできるおじさん”が加わった。
たぶん、それだけだ。
大したことではない。
大したことではないのに、妙に引っかかる。
俺は机の上の麦茶を一口飲んだ。
ぬるい。
それでも、さっきよりは少しだけうまかった。
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