「にぼし姫はコンビニを語る」
ネットという場所には、不思議な近さがある。
顔は知らない。
年齢も本名も住んでいる場所も知らない。
それなのに、妙に距離の近い言葉だけが飛んでくる。
「寝ろ」
「それ意味あります?」
「お前またか」
現実なら数秒で喧嘩になるようなやり取りでも、ネットでは案外成立する。
逆に、現実では何でもない一言が、ネットだと妙に深く刺さることもある。
そしてその夜、俺は自室で、いつものようにその“妙な近さ”の中にいた。
時刻は二十三時過ぎ。
富子はもう一階でテレビを消し、寝る支度に入っている頃だろう。
外は静かで、窓の向こうには、たまに車の音が遠くを流れるだけ。
俺の部屋は薄暗く、机の上のモニターだけが明るい。
片方の画面ではソシャゲのスタミナ消化。
もう片方では、白狼77とにぼし姫のいるチャットルームが開いていた。
話題は最初、ゲームイベントの不満だった。
ドロップ率が渋いとか、配布石が少ないとか、そのへんのいつもの愚痴だ。
だが、こういうものは長く続かない。
ゲームの愚痴はすぐ別の愚痴へ枝分かれする。
そして今、その話題は“変な客”へ移っていた。
『今日コンビニでさ』
白狼77が投げる。
『急にレジ前で五分悩むやついて草だった』
俺は一瞬だけ、画面の前で止まった。
五分は長い。
長いが、気持ちはわからなくもない。
レジ前というのは、思考を急かされる場所だ。袋、ポイント、温め、支払い。人によってはそれだけでかなり処理量が多い。
『五分は盛ってるだろ』
と俺は返す。
すぐに白狼77が返ってくる。
『三分かもしれん』
『でも長かった』
『後ろに並んでるこっちは暇じゃねえんだよ』
にぼし姫が、少し間を置いて一行だけ入れてきた。
『レジ前で急に真顔になる人いますよね』
俺はその文を二度読んだ。
“いますよね”という言い方が妙に生々しい。
ネットで見た話を受け売りしている感じではない。
実際に見たことがある側の書き方だ。
『詳しいな』
と俺は打ち込んだ。
『何がですか』
『変な客』
既読がつく。
『見てればわかるので』
短い。
だが、その“見てればわかる”が、引っかかった。
見てれば。
どこで。
どういう立場で。
もちろん、コンビニ店員とは限らない。
白狼77みたいに、たまたま後ろに並んでいただけかもしれない。
そもそも接客業なんて世の中にいくらでもある。
それでも、にぼし姫の言い方には、妙な現場感があった。
白狼77が続ける。
『あとあれな』
『毎回同じもん買うやつ』
『あれもだいぶ覚える』
俺は内心で少しだけ身構えた。
『普通だろ』
とだけ返す。
『普通だけど覚える』
『いつものおっさん、いつものタバコ、とか』
『いつもの兄ちゃん、いつものエナドリ、とか』
やめろ。
なんでそこを例に出す。
たまたまか。
たまたまだろう。
たまたまだと思いたい。
にぼし姫がさらに追撃する。
『同じ時間に来て同じもの買う人は記憶に残りやすいです』
その瞬間、俺はキーボードの上で指を止めた。
です。
断定のしかたが、何か妙だ。
いや、別に妙ではない。
にぼし姫はもともとそういう文体だ。
だが、“記憶に残りやすいです”の具体性が、どうしても少し引っかかる。
『お前、接客でもしてんの?』
半分冗談、半分探るようなつもりで送った。
にぼし姫からの返事は数秒遅れた。
『ご想像にお任せします』
逃げた。
いや、逃げたという言い方は変か。
単に答えなかっただけだ。
だが、答えないことで逆に怪しさは増す。
白狼77が横から茶化してくる。
『店員だったら面白いな』
『太郎みたいなの毎回観察されてそう』
『何で俺なんだよ』
『心当たりありそうだから』
ありすぎて困る。
俺は画面の前で小さく舌打ちした。
だが、そこでそれ以上踏み込んでも仕方がない。
にぼし姫はこういう時、わざと詳しく言わない。
そこが腹立たしいし、逆に少し長く付き合っている理由でもある。
チャットはそのあと、別のゲームの話題へ流れていった。
だが俺の中では、“見てればわかるので”と“同じ時間に来て同じもの買う人は記憶に残りやすいです”が妙に残っていた。
何となく、嫌な感じがする。
いや、正確には、嫌というより落ち着かない。
誰かに自分の生活パターンを見られているかもしれない、という想像は、それだけで変な落ち着かなさを生む。
……まあ、実際に見られてはいるのだろう。
コンビニの店員には。
問題は、それをこちらが意識するかどうかだ。
俺はチャットを閉じ、数分だけぼんやりしたあと、結局いつものように夜の補給へ出ることにした。
理由は単純で、エナジードリンクが切れそうだったからだ。
切れそうというだけで、今日絶対に必要なわけではない。
だが、切れるかもしれないという事実が精神へ与える圧は軽くない。
玄関を出る。
夜気は少し湿っていた。
ここ数日は雨が近いのか、空気に重さがある。
コンビニまでの道を歩きながら、俺はさっきのチャットを思い出していた。
接客でもしてんのか。
にぼし姫は答えなかった。
だが、今までにも妙に具体的な“店員目線っぽい”発言はいくつかあった気がする。
いや、考えすぎだろう。
ネット相手の正体なんて、想像したところで当たるものではない。
当たったとしても、だいたいろくなことにならない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、自動ドアをくぐった。
店内はいつも通り明るい。
客は少ない。
そしてレジには、いつも通り風間凛がいた。
もはや“いつも通り”という認識になりつつあるのが嫌だった。
凛はレジカウンターの中で、新しい袋を補充していた。
こちらに気づくと、軽く視線を上げる。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
また言った。
もうこれは本当に治らない。
俺は飲み物棚へ向かった。
今夜はエナドリ一本と、ついでに菓子でも買っておけば十分だろう。
だが、さっきの“同じ時間に来て同じもの買う人は記憶に残りやすいです”が頭にあるせいで、いつもの銘柄を取る手が一瞬止まる。
どうする。
変えるか。
いや、変えたら変えたで“今日は違うんだな”と思われるかもしれない。
それはそれで意識している感が出る。
結局、俺はいつもの缶を手に取った。
「……別にいいだろ」
小さく呟く。
別に悪いことではない。
飲みたいものを飲む。
それだけだ。
菓子棚を見て、適当にせんべいを一袋。
レジへ向かう。
凛は商品を受け取ると、淡々とスキャンしながら言った。
「袋、どうしますか」
「お願いします」
今回はすぐ答えられた。
よし。
凛がエナドリの缶を手に取る。
その瞬間、俺の中で、さっきのにぼし姫の文がまた浮かんだ。
同じ時間に来て同じもの買う人。
やめろ。
今思い出すな。
凛が缶を読み取りながら、何気なく言った。
「これ、やっぱり人気ありますね」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「この時間帯だと、買う人多いです」
それ自体は、普通の会話だった。
接客として成立する範囲。
だが、“この時間帯”という言葉が、妙に耳に残る。
「そうなんだ」
「はい」
短い。
しかし、さっきのチャットの後だと、何でも少し引っかかってしまう。
凛はそのまま、せんべいを読み取りながら続ける。
「甘いのじゃなくて、しょっぱいのと一緒に買う人も多いです」
俺は黙った。
今の言い方。
それは、単なる一般論か。
それとも、今レジに置かれている俺の商品構成に対するコメントか。
どちらにしても、妙に具体的で嫌だ。
「……詳しいな」
思わず口から出た。
凛は少しだけ首を傾げる。
「売れ方見てると何となく」
その返しで、俺の背中に小さくぞわっとしたものが走った。
何となく。
見てると。
さっきのにぼし姫と、少しだけ似ている。
もちろん、似ていてもおかしくはない。
世の中には似た言い回しをする人間くらいいくらでもいる。
それはわかっている。
だが、今夜はタイミングが悪かった。
「ポイントカードありますか」
「あ、ないです」
「かしこまりました」
会話は普通に流れていく。
俺だけが、勝手に小さく引っかかっている。
会計をして、袋を受け取る。
帰ろうとした時、凛がふと付け足すみたいに言った。
「急にレジ前で悩む人って、たまにいますよね」
心臓が、少しだけ大きく跳ねた。
「……は?」
間抜けな声が出た。
凛は別にこちらを見て笑ってもいない。
棚の方へ目を向けながら、独り言みたいに続ける。
「飲み物だけなのに、すごく真剣に選んでる人とか」
完全に、さっきの話題だ。
白狼77の“レジ前で五分悩むやつ”と、にぼし姫の“レジ前で急に真顔になる人”。
そこへ凛のこの一言。
俺は数秒だけ、本当に言葉を失った。
だが次の瞬間、自分の頭の中で別の警報が鳴る。
待て。
もし今ここで、“それ、さっきネットで似た話したやつがいて”とか言い出したらどうなる。
ただの変な客である。
いや、元から多少変ではあるのだが、それをわざわざ増幅する必要はない。
「……まあ、いるんじゃないか」
結局、無難とも言えない無難な返事しかできなかった。
凛は小さく頷いた。
「いますよね」
それだけ。
それ以上何もない。
だが、その“いますよね”に妙な余韻があった。
店を出る。
夜気が、少し生ぬるい。
俺は袋をぶら下げたまま、店の前で数秒だけ立ち止まった。
「……いやいや」
口に出して打ち消す。
たまたまだ。
コンビニ店員が客の話をすることもある。
ネットで似た話題になることもある。
似た言い回しになることだってある。
偶然が二つ三つ重なっただけ。
そう考えるのが普通だ。
帰り道、俺は何度もその“普通”を自分へ言い聞かせた。
だが家へ戻り、自室のドアを閉めても、何となく落ち着かない。
机に菓子を置き、エナドリを開ける。
プルタブの音が、妙に乾いて聞こえた。
スマホを開く。
チャット欄には新着が一件。
にぼし姫だった。
『今夜は悩まず買えましたか』
俺は、画面を見たまま止まった。
何だそれ。
偶然か。
たまたま、俺がコンビニへ行く時間帯に、さっきの話題を思い出しただけか。
それとも、本当にただの雑談か。
どれにしても、妙にタイミングが悪すぎる。
『何の話だ』
と返す。
すぐに既読。
『エナドリです』
短い。
いつも通り短い。
それなのに、今夜は妙に具体的に見える。
『別に悩んでない』
と返しながら、さっき棚の前で止まった自分を思い出して少しだけ腹が立った。
『そうですか』
それだけで会話は終わった。
終わった、はずだった。
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
にぼし姫。
風間凛。
頭の中で二つの名前を並べてみる。
ないない、とすぐに首を振る。
近所のコンビニ店員とネットの知り合いが同一人物なんて、そんな都合のいい――あるいは悪い――話があるか。
たぶんない。
きっとない。
だが、完全に笑い飛ばせるほど遠くもない。
「……気のせいだろ」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
その瞬間、白狼77から新着。
『お前またコンビニ行ってたろ』
どきりとする。
『何でそう思う』
『にぼし姫の言い方がなんか現場感あったから』
俺は数秒、真顔で画面を見た。
お前も思うのかよ。
そう打ちたいのを少し我慢して、代わりに短く返す。
『気のせいだ』
『お前がそう言うならそうなんだろうな』
全然納得していない返しだった。
俺はスマホを伏せ、エナドリを一口飲んだ。
甘い。
だが、今夜は少しだけ味が落ち着かない。
ただの偶然。
そういうことにしておく。
ネットの向こうと、コンビニのレジの向こう。
その二つが妙につながって見えるのは、たぶんこっちの考えすぎだ。
考えすぎであってほしい。
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