「夏休みの姪は距離が近い」
子どもは順応が早い。
昨日まで警戒していたものにも、今日には興味を示し、明日には当然のように近づいてくる。
大人みたいに理屈で距離を測ったり、面子や空気で躊躇したりしない。
その無遠慮さは時に残酷だが、時に妙にやさしい。
そして今、俺はその“無遠慮さ”に少しずつ押されつつあった。
夏休みである。
夏休みという言葉を聞くと、世の多くの人間は海だの祭りだの宿題だの、そういう健全な単語を思い浮かべるのだろう。
だが実家暮らしの自宅警備員にとっての夏休みは、少し違う。
まず、近所がうるさい。
昼間から子どもの声がする。
道路で遊ぶ音、笑う声、自転車のブレーキ、どこかの家から漂うカレーの匂い。世界が妙に活動的になる。
そして何より、良子とひなが実家に来る頻度が上がる。
それが問題だった。
もちろん、問題という言い方は少し語弊がある。
ひなが悪いわけではない。良子はまあ、言い方によっては悪い時もあるが、今日はそこを論じたいわけではない。
ただ、夏休みの子どもは元気だ。
元気な子どもは家の中を動く。
動く子どもは、こちらの結界へ平気で近づく。
その日の昼過ぎ、俺は自室で静かにゲームをしていた。
外は明るい。
カーテンはいつものように半分閉じ。
部屋の中にはエアコンの低い音。
コントローラーを握りながら、ようやく一人の時間を確保した、という手応えがあった。
階下には、すでに良子とひなが来ている。
だが今はリビングで何かしているらしく、二階までは上がってきていない。
このわずかな平穏を俺はかなり真剣に守っていた。
だから、廊下を近づいてくる小さな足音を聞いた時、俺はコントローラーを持ったまま天井を見上げた。
「…来たな」
軽い。
ためらいがない。
これは良子ではなく、ひなだ。
案の定、足音は俺の部屋の前で止まり、数秒の間を置いてから、小さな声がした。
「おじさーん」
前より自然だな、と思った。
前は、ひなはもっと警戒していた。
ドアの前まで来ても、そこに“変なもの”がいるかもしれない、みたいな慎重さがあった。
今は違う。
少なくとも、“話しかければ返事はする相手”としては認識されているらしい。
「…何」
俺は画面を止めずに返す。
「いる?」
「声返してるだろ」
「あ、そっか」
そういう返答が子どもらしい。
数秒の間。
そして、続き。
「この前のやつ、みたい」
何の話かわからず、俺はようやくゲームを一時停止した。
「この前の?」
「ロボのゲーム」
ああ、と思い出す。
前に部屋を少しだけ見せた時、ひなが興味を持っていた古いゲームのことだろう。
よりによって、今やっているのがそのシリーズの続編だった。
しまった。
見える位置に置いていた記憶がある。
子どもは一度食いついたものを忘れない時がある。
「今日は無理だ」
「なんで?」
「今、忙しい」
「ゲームしてるのに?」
痛いところを突くな。
「ゲームしてるから忙しいんだよ」
「へー」
その“へー”は納得していないやつだ。
ドアの向こうで気配が少し動く。
たぶん、床にしゃがんだか、ドアにもたれたか。
気配が居座る方向へ変わった。
「ちょっとだけ」
「駄目」
「みるだけ」
「駄目」
「なんでー」
「何でも」
「またけっかい?」
俺は少し黙った。
「…まあ、そうだな」
「まだあるの?」
「ある」
「へー」
またそれだ。
子どもの“へー”は意味が広い。
感心、疑問、適当、全部入る。
その時、階下から良子の声が飛んできた。
「ひなー?どこー?」
「おじさんのへやー!」
やめろ。
いちいち実況するな。
「また行ってんの?邪魔しちゃ駄目だよー」
止めているようで止めていない。
良子のあの距離感は、たまに敵より厄介だ。
ひなの声がすぐ返る。
「ゲームみたい!」
「お兄ちゃん、見せてあげれば?」
階下から気軽に言うな。
俺は小さくため息をついた。
前なら、ここでもっと強く拒否していたかもしれない。
だが、今はそこまで尖れなかった。
ひなが前より普通に話しかけてくること。
俺の部屋を“怖い場所”ではなく、“変だけど面白いものがある場所”として見始めていること。
その変化を、俺自身も薄々わかってしまっているからだ。
結局、俺はコントローラーを机へ置いて立ち上がった。
「…本当に少しだけな」
「やった」
即答だった。
そして、その“やった”の温度が思った以上に高い。
俺は部屋を見回す。
床には漫画。
椅子の背にはパーカー。
ベッドの端にはタオル。
昨日の夜に飲んだペットボトル。
壊滅的ではない。だが他人に見せる前提の状態ではない。
俺は慌てて、最低限だけ片づけた。
ペットボトルを机の陰へ。
漫画を積み直す。
タオルを足元へ蹴る。
その程度で何が変わるという話だが、準備時間ゼロよりはいい。
気持ちの問題である。
ドアを開けると、ひなが廊下で待っていた。
今日は髪を二つに結んでいて、Tシャツの裾を両手で持っている。待ちきれない時の癖なのかもしれない。
「ちょっとだけだぞ」
「うん」
「騒ぐな」
「うん」
「勝手に触るな」
「うん」
返事だけは素直だ。
俺はドアを少し開けた。
前より開く角度が広いことに、自分で少し驚く。
「入るの?」
「…入るのは、まあ、少しだけなら」
言ってしまった。
ひなの顔が明るくなる。
「いいの!?」
「うるさい。静かに」
ひなは嬉しそうに頷き、小さな足で部屋へ入った。
俺はその後ろ姿を見ながら、妙な気分になる。
侵入を許している。
しかも自分の意思で。
これは間違いなく、以前の俺ならありえなかった。
ひなは部屋の中を見回して、最初に言った。
「…やっぱりちょっとくらい」
「だから落ち着く明るさだって」
「でも前よりきれい」
俺は一瞬止まった。
「そうか?」
「うん。なんか、前よりふめる」
評価基準が低いが、的確でもある。
それはたぶん、Wi-Fi事件の時に掃除した成果だろう。
あれは富子の圧でやらされた作業だったが、こうして見ると完全な無駄でもなかったらしい。
ひなの視線はすぐに画面へ向かった。
「それ?」
「ああ」
「この前のロボの?」
「シリーズの別のやつだ」
「べつなの?」
「まあ、繋がってるけど別」
説明し始めると長くなるやつだ。
俺は自分にブレーキをかけた。
だが、ひなはそんなことは気にせず、画面に近づく。
「やってみたい」
来た。
「難しいぞ」
「やってみたい」
「これは今の子向けじゃないというか、操作が古くてだな」
「やってみたい」
押しが強い。
しかも、ひなの“やってみたい”は、健太みたいな勢いではなく、純粋な興味の押し方だから断りづらい。
俺は渋々、予備のコントローラーを引っ張り出した。
「…すぐ飽きるぞ」
「やる」
「まずこれが移動で、これがジャンプ」
「うん」
「で、こっちが攻撃」
「うん」
「ただしエネルギー管理があって、近接と遠距離で消費効率が違うから――」
「わかんない」
早い。
「いや、だからそこが大事で」
「おじさん、はやい」
その時、良子がノックもせずドアを開けた。
「ほらやっぱり。絶対ガチ説明してると思った」
「してない」
「してるって。ひなの顔見なよ、半分聞いてないでしょ」
ひなはコントローラーを持ったまま、確かに半分しか聞いていない顔をしていた。
「とにかく動かせばいいんだよ」
良子があっさり言う。
「雑すぎる」
「子ども相手にはそれでいいの」
「それで詰まるだろ」
「詰まったらその時また教えればいいでしょ」
この女は何でも感覚で言う。
だが、子ども相手にはそっちが正しいのかもしれない。認めたくはないが。
ひなはとりあえずキャラを動かし始めた。
「うわ、むず」
「だから言った」
「おちた」
「ジャンプが遅い」
「おちたー」
「落ち着け」
「おじさん、てつだって」
「貸せ」
そこで俺がすぐ貸せと言ってしまうあたり、大人げないと思う。
だが、見ていてじれったいものはじれったい。
好きなゲームや好きなジャンルほど、その感情は出やすい。
俺が横から少しだけ操作すると、ひながすぐ不満そうに言う。
「じぶんでやる!」
「さっき手伝えって言っただろ」
「ちょっとだけ!」
「どっちだよ」
良子が後ろで笑っている。
「相性いいじゃん、二人とも」
「よくない」
「でも前よりだいぶ普通に喋ってるじゃん」
その指摘に、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
たしかにそうだった。
ひなが俺の部屋にいて、俺が横からゲームを教えていて、良子がそれを見て笑っている。
状況だけ並べると、ずいぶん普通の家族っぽい。
もちろん、俺の中ではかなり異常事態だ。
だが、その異常さに対して前ほど肩に力が入っていないのも事実だった。
ひなはしばらく失敗と成功を繰り返しながら遊んだあと、ようやく小さく声を上げた。
「できた!」
画面の中で、ロボがぎこちなく敵を倒す。
「だから言っただろ、タイミングを――」
「おじさん、いまのはひながやった!」
「…そうだな」
俺は少しだけ口をつぐんだ。
子どもにゲームを教えるのは、自分が上手くなるより難しい。
こっちは効率を考えるが、向こうは楽しさで動く。
そのズレにいちいちつきあうのは面倒だ。面倒だが、完全に嫌でもない。
ひながまたチャレンジする。
失敗する。
今度は自分から聞いてくる。
「これ、どうやるの?」
「そこはジャンプしてから押す」
「こう?」
「違う。少し早い」
「むずい」
「だから最初に言っただろ」
「またはやい」
良子が吹き出した。
「お兄ちゃん、何でそんな体育会系のゲームコーチみたいになってんの」
「ちゃんとやった方が早いからだ」
「それ大人の理屈」
そうかもしれない。
だが、つい口が出る。
結局、ひなが飽きるまでの三十分弱、俺はゲームを教え続けた。
途中で水を飲みに行ったり、ひなが別のフィギュアに気を取られたりもしたが、最初の頃の“部屋の前で警戒し合う感じ”はもうほとんどなかった。
遊び終わる頃、ひなは少し汗ばんだ顔で言った。
「つかれた」
「だろうな」
「でも、たのしかった」
「…そうか」
その一言は、わりと普通に嬉しかった。
良子が壁にもたれたまま腕を組む。
「よかったじゃん、お兄ちゃん。ちゃんと遊べて」
「遊んでたのか、これ」
「遊んでたでしょ」
「指導だろ」
「子ども相手にその言い方やめて」
ひなはすでに次の興味へ移り始めていて、棚のロボを見上げていた。
だが、その前にくるりと振り返る。
「またつづきやろうね」
あまりにも当然みたいに言うので、俺は一瞬だけ何も返せなかった。
「…また来る気か」
「くるよ?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「つぎ、もっとできるようになる」
妙な前向きさだった。
やる気があるのはいいことだろう。
たぶん。
良子がにやにやしている。
「次もよろしくね、お兄ちゃん」
「俺は引き受けた覚えはない」
「でも今、完全に次回ある空気だったじゃん」
それは否定しづらい。
ひなはもう部屋の出口へ向かっていて、最後に立ち止まって言った。
「おじさんのへや、前よりへんじゃなかった」
俺は眉をひそめた。
「褒めてるのか、それ」
「うん」
「褒めてるらしいよ」
良子が面白そうに補足する。
「前よりって何だよ」
「前より、だよ」
ひなは真顔でそう言って、それから小さく笑った。
意味はよくわからないが、少なくとも悪い評価ではないらしい。
ひなが階下へ降り、良子もそのあとに続く。
ドアの前で、良子が一瞬だけ振り返った。
「ありがとね」
そう言ったあと、すぐにいつもの調子へ戻る。
「まあ、またガチ解説しすぎたら止めるけど」
「余計だ」
「知ってる」
去っていく足音。
部屋に静けさが戻る。
俺はドアを閉め、しばらくその場に立っていた。
ひなが座っていた椅子。
机の端に少しずれたコントローラー。
画面に残ったゲームのポーズ画面。
ほんの三十分くらい前まで、ここは完全に一人の空間だった。
今も見た目は同じなのに、どこか少しだけ空気が違う。
俺は椅子に座り直し、コントローラーを手に取った。
「…また、ねえ」
独り言が漏れる。
次がある前提。
それが不思議だった。
だが、不快ではなかった。
もちろん、毎回こうだと疲れるだろう。
子どもにゲームを教えるのは思った以上に消耗するし、良子のツッコミもいちいちうるさい。
それでも、前よりひなが自然に笑っていたことや、俺の部屋を“ちょっと見たい場所”ではなく“また来る場所”として扱い始めたことは、妙に心へ残った。
画面のゲームを再開する。
だが、さっきまでみたいに集中はできない。
ひなの「またつづきやろうね」が、変に反復してくるからだ。
俺は数分でゲームを一時停止した。
「…変な感じだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
懐かれている。
たぶん、そういうことなのだろう。
変なおじさん。
たんていおじさん。
ゲームを早口で教えるおじさん。
呼び方は微妙だが、少なくとも“怖い何か”ではなくなった。
夏の廊下を、小さな足音が遠ざかっていく気配がもうない。
階下からは良子とひなの笑う声が少しだけ聞こえる。
俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
夏休みは騒がしい。
予定も崩れる。
静かな時間も減る。
そのへんはやはり面倒だ。
だが、その面倒くささの中に、前より少しだけ慣れてきている自分がいるのもまた事実だった。
それが成長なのか、諦めなのか、あるいはただの順応なのかはわからない。
まあ、どれでもいいか、と俺は思った。
少なくとも、次があるらしい。
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