プロローグ 「近所の小学生は突然に」
第2幕の始まりです。
平穏とは、たいてい窓の外から壊れる。
少なくとも俺の人生において、それはかなりの確率で正しい。
インターホン。
宅配便。
近所の声。
子どもの騒ぐ音。
家の中にいながら、外の気配は容赦なくこちらの神経へ触れてくる。
壁一枚、窓一枚、カーテン一枚。
文明は便利だが、完全な防壁ではない。
その日の午後も、俺――佐藤太郎は二階の自室で、極めて静かな時間を確保していた。
机の上にはノートPC。
片手にはスマホ。
動画サイトではゲーム考察の配信が流れ、別窓では匿名掲示板、さらにその裏で通販サイトの価格変動も見ている。
三正面巡回。
現代自宅警備員としては標準的な布陣である。
外は晴れていた。
カーテンの隙間から、夏の光が細く差している。
眩しいので、カーテンは最低限しか開けていない。光は必要だが、外へこちらの存在を知らせる必要はない。これは単なる好みではなく、防衛上の判断だ。
階下からは富子の生活音がしていた。
洗濯機の回る音。
台所の引き出しを閉める音。
今日は比較的機嫌が悪くない。音が荒くないからだ。
こういう判断だけは、俺は昔から妙に当たる。
さらに外からは、子どもの遊ぶ声が時々聞こえていた。
近所の小学生だろう。
夏休みだから、昼間から外で騒いでいても不思議ではない。
元気だな、とは思う。
だが思うだけで、それ以上の関心はない。
こっちにはこっちの生活があるし、向こうには向こうの世界がある。交わらない方が平和だ。
だから、その音がこちらの庭へ落ちてきた瞬間、俺は非常に嫌な顔をした。
ぼすっ。
「…ん?」
動画を止め、顔を上げる。
今の音は、自然落下の音ではない。
軽いが、ある程度弾力のあるものが、地面か草の上へ落ちた音。
かなり嫌な予感がする。
続いて、窓の外から子どもの声がした。
「あっ、やべ」
男の子の声。
しかも“やべ”で始まるタイプは、こちらの平穏にとってあまり良い兆候ではない。
俺は椅子から立ち上がり、カーテンの端をほんの少しだけずらした。
庭の端。
物置の前あたりに、青いゴムボールが転がっていた。
「…最悪だ」
思わず口に出る。
佐藤家の庭は、広いわけではない。
だが、塀と植木の位置のせいで、一度物が入り込むと取る側にとっては面倒な構造をしている。つまり、“取ってください”イベントが発生しやすい。
俺はカーテンの隙間からさらに外を窺った。
塀の向こうから、小さな頭が少しだけ見える。
短髪。帽子なし。
たぶん小学生男子。
気配からして、こちらが中にいることも、もしかすると見えていると思っているのかもしれない。
嫌な流れだった。
そのまま放置できるか。
できればしたい。
だが、ボールが庭にある以上、向こうも諦めきれないだろう。
しかもこういう時に限って、近所の子どもは妙に行動力がある。勝手に門を開けたり、庭へ入ろうとしたりしかねない。
俺は数秒だけ真剣に“気づかなかったことにする”案を検討した。
その時。
「すみませーん!」
来た。
やはり来た。
窓越しではなく、玄関側からだ。
声量に遠慮がない。
こちらの事情や心拍数を一切考慮しない、子ども特有の真っ直ぐな呼びかけである。
俺は天井を仰いだ。
終わった。
階下から、富子の声がした。
「太郎ー?」
嫌な予感しかしない呼び方だった。
「…何」
「ちょっと出てあげて」
ほら来た。
「何で俺」
「ボールでしょ?」
「わかってるなら母さんが出ればいいだろ」
「洗濯物たたんでるの」
知らんがな。
「家にいるんだから、そのくらいやりなさい」
出た。
この家の最強理論、**“家にいるんだから”**である。
家にいることを理由に、あらゆる雑務がこちらへ接続される。反論は難しい。なぜなら実際に家にいるからだ。
さらにもう一度、外から声。
「すみませーん!」
元気がよすぎる。
悪いことをしている自覚が薄い分だけ、声が明るい。
俺は深いため息をつき、スマホを机に伏せた。
「…行く」
「はいはい」
富子の返事は軽い。
こっちは今から対人イベントなのだが、母さんにとっては“近所の子へボールを返すだけ”でしかない。
その認識の差がいつもつらい。
俺は階段を下り、玄関へ向かった。
できるだけ自然に。
だが急ぎすぎず。
外にいる相手に“ずっと中で様子を窺っていました”と思われるのも癪だ。
玄関のドアを少しだけ開ける。
外にいたのは、やはり小学生の男子だった。
十歳前後。
日焼けした肌。
Tシャツ短パン。
片手にはキャップ。
いかにも“外で遊ぶのが当然”みたいな顔をしている。
俺と目が合うと、少年は一切臆することなく言った。
「あ、すみません。ボール入っちゃって」
普通だ。
妙に普通だった。
大人相手に緊張している様子もないし、失礼に馴れ馴れしいわけでもない。ただ本当に“ボールが入ったから取りに来た近所の子”として成立している。
その自然さに、逆にこっちが面食らう。
「…庭に?」
「はい。青いやつ」
「見た」
「取ってもらっていいですか」
言い方が少しだけ命令っぽい。
だが、たぶん本人にその自覚はないのだろう。
俺は門の鍵を開け、庭へ回った。
後ろから少年が普通についてこようとしたので、思わず振り返る。
「入るなよ」
「あ、はい」
そこは素直だった。
庭の端、物置の前まで行ってボールを拾う。
軽いゴムボール。
こういうのが家の中ならまだしも、庭へ飛び込んでくるのはあまりよろしくない。
戻って、門のところで少年にボールを渡す。
「ほら」
「ありがとうございます!」
声がでかい。
だが、変に卑屈でもなく、必要以上にこちらを怖がるでもなく、ただ元気なだけなのは少し新鮮だった。
そこで終わればよかった。
本当に、そこで終わればよかったのだ。
だが少年は、ボールを受け取ったあとも帰らなかった。
門越しにこちらを見上げ、少し首を傾げる。
「おじさん、ずっと家にいる人?」
やめろ。
初対面の子どもに、もっとも核心へ近い質問を、そんな軽いテンポで投げるな。
俺は眉をひそめた。
「…いる時はいる」
「へえ」
へえ、じゃない。
だが少年は悪意なく、さらに続けた。
「前からたまに見てた」
追撃が強い。
「窓のとこにいる時あるよね」
「…見てるな」
「たまたま」
たまたまの観察精度が高い。
俺は何と返すべきか迷った。
子ども相手にムキになるのも変だし、かといって愛想よく広げる義理もない。
最適解が見つからないまま沈黙していると、少年の視線が俺の背後へ流れた。
正確には、二階の窓辺。
部屋の中に置いたゲーム機の箱だかフィギュアの影だか、そのへんに引っかかったらしい。
「あ、それ」
嫌な予感。
「何だ」
「ゲーム?」
しまった。
俺はほんの少しだけ目を逸らした。
庭側の窓近くに、昨日出しっぱなしにしていたゲーム機の箱が見える位置にあったはずだ。しかも子どもが食いつきそうな色味をしている。
「…まあ」
「何のやつ?」
「別に」
「持ってるんだ」
会話が、妙な方向へ続く。
少年は門に肘をつく勢いで身を乗り出してきた。
「オレ、今これやってる」
そう言って、ボールを脇へ抱えたまま、スマホの待ち受け画面を見せてきた。
有名な対戦ゲームのキャラが映っている。
俺は一瞬だけ固まったあと、反射的に言ってしまった。
「そのキャラ弱体化入っただろ」
しまった、と思った時には遅かった。
少年の目がぱっと明るくなる。
「え、知ってんの!?」
「…まあ」
「うわ、やっぱゲームやるじゃん!」
“やっぱ”の根拠はわからないが、少年の中で何かがつながったらしい。
そこから先は速かった。
「どのキャラ使うの?」
「ランクどのへん?」
「今のイベントやった?」
「新しいステージどう思う?」
質問の連射である。
俺は門の前で、予想外の方向から会話の圧を受けていた。
しかも相手が子どもなので、適当にあしらうと露骨にわかる。
結果、思ったよりまともに返してしまう。
「イベントは一応見た」
「新ステージは視認性が悪い」
「キャラは…まあ、バランス型」
「ランクは別に大したことない」
大したことないと言ったが、少年の反応を見る限り、たぶん俺の言い方や知識量が少しだけ“わかってる人”寄りだったのだろう。
「すげー。おじさん意外とわかるじゃん」
その一言で、少しだけ傷ついた。
「意外と、って何だ」
「いや、なんか…もっとこう…」
「何だよ」
「ずっと家にいるだけの人かと」
率直すぎる。
俺はしばらく黙った。
反論の余地はある。
あるが、どこからどう切り込めばいいのか難しい。
そこで、階下の窓が少し開いて富子が顔を出した。
「健太くん、ボール取れた?」
健太。
名前だけは把握した。
「取れたー!」
「よかったわね。あんまり飛ばしちゃ駄目よ」
「はーい!」
返事だけはいい。
健太はまたこっちを見た。
「おじさん、ゲーム好きなんだ」
「…まあな」
「今度また話していい?」
「何でだよ」
「だって知ってそうだし」
その理屈、強引だなと俺は思った。
だが健太の中ではそれで十分らしい。
「じゃ、また来るね!」
ボールを抱えたまま、健太はあっさり走っていった。
去り際まで、こちらに遠慮というものを残していかなかった。
門のところに一人残されて、俺はしばらく立ち尽くした。
また来るね。
何だその約束されていない再訪宣言は。
近所の小学生というのは、いったん“話せる相手”認定したらこんなにも躊躇なく距離を詰めてくるものなのか。
俺は門を閉め、玄関へ戻った。
富子はもう窓を閉めて、台所へ戻っている。
リビングへ入ると、何でもない声で聞いてきた。
「取れた?」
「取れた」
「そう」
「…健太っていうらしい」
「田中さんとこの子でしょ」
「知ってるのか」
「近所だもの」
生活圏の住人はこういうところが強い。
名前と家と親の顔くらいは、何でもないこととして繋がっている。
富子は洗濯物を畳みながら続けた。
「元気な子よねえ」
「元気すぎる」
「子どもなんてあんなものでしょ」
「距離が近い」
「おじさんって呼ばれた?」
「…呼ばれた」
富子が笑う。
心底楽しそうに笑う。
「そりゃそうでしょ」
「笑うなよ」
「だっておじさんだもの」
正論は今日も容赦がない。
俺は反論を諦め、リビングの隅に置いてあった麦茶を一口飲んだ。
ぬるい。
さっきまでの会話の疲れもあって、余計にまずく感じる。
「でも、あんた子ども相手なら普通に喋れるのね」
富子が何気なく言った。
「喋ってない」
「喋ってたわよ、だいぶ」
「向こうが勝手に喋っただけだ」
「はいはい」
富子はそれ以上追及しなかった。
だが、否定しきれない自分が少しだけ腹立たしかった。
たしかに、相手が大人だったら、あそこまで素直に受け答えしなかった気がする。
営業だったらもっと警戒した。
近所のおばちゃんだったら会話の切り際を探していた。
だが健太には、妙に“応じてしまった”。
なぜか。
子どもだからか。
向こうに悪意や世間体がないからか。
あるいは、ゲームの話題が出たからか。
どれもありそうで、どれも決め手ではない。
俺はそのまま二階へ戻った。
自室のドアを閉める。
いつもの薄暗さ。
モニターの光。
さっきまでの平穏はそこにあるのに、もう同じものではない。
近所の小学生に認識された。
しかも、ゲームの話が通じるおじさんとして。
「…最悪だな」
呟いてみる。
だが、心の底から最悪かと言われると、少し答えに困る。
健太はうるさい。
距離も近い。
“ずっと家にいる人”とか言う。
そのへんはかなり嫌だ。
けれど、ゲームの話をした時のあの反応は、思ったより嫌ではなかった。
俺は椅子に座り直し、さっき止めた動画を再生した。
だが、数分もすると内容が頭に入らなくなる。
健太の声が思い出されるからだ。
「おじさん意外とわかるじゃん」
意外と、は余計だ。
余計だが、まあ、完全否定も難しい。
近所の子どもにとって、俺はたぶん“家にいる変なおじさん”でしかなかったのだろう。
そこへ少しだけゲーム知識が加わった。
その程度の認識更新だ。
それでも、生活圏というのはそういう小さな認識の積み重ねでできているのかもしれない。
俺は動画を止め、代わりに机の端に置いてあった携帯ゲーム機を眺めた。
「また来るね、か…」
勝手なことを言う。
だが、次に来た時、完全に無視できるかと考えると、それも少し難しい気がした。
面倒だ。
実に面倒だ。
それでも、まあ。
ボールを返しただけで終わらなかった午後としては、思ったほど悪くなかったのかもしれない。
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