エピローグ 「変なおじさんは、家のことなら少し強い」
家というものは、不思議な場所だ。
大きな事件はめったに起きない。
火事も、泥棒も、天井の崩落も、そうそうあるものではない。
その代わり、どうでもいい面倒は無限に起きる。
どこへ置いたかわからない充電器。
鳴るタイミングの悪いインターホン。
台所で足りなくなる調味料。
誰かが飲みかけのまま置いたコップ。
子どもが「さっきまであった」と言い張る小物。
そういう小さな面倒を、誰かがそのつど処理して、家というものは何となく回っている。
たいていは富子だ。
この家では昔からそうだった。
母さんが気づき、母さんが片づけ、母さんが回していく。父さんがいた頃も、いなくなってからも、そこはあまり変わらなかった。
だから俺は、長いこと、家の中のそういう流れを“自分とは別のもの”として見ていた気がする。
その日も、最初は普通の休日だった。
良子とひなが来ている。
富子は台所で夕飯の支度。
良子は途中から手伝うつもりらしいが、今はまだひなに付き合っている。
俺はリビングの端で、いつものように空気として存在していた。
テレビでは夕方の情報番組。
窓の外は少し赤くなりかけている。
家の中に食材の匂いが広がり始め、休日がゆっくり夜へ移っていく、まあ平和な時間帯だった。
だから、その最初の小さな面倒が起きた時も、誰も大したことだとは思っていなかった。
ピンポーン。
インターホン。
俺の肩がぴくっと揺れた。
駄目だ。
やはり何度聞いても慣れない。
チャイムというものは、それ自体がすでにこちらの平穏を一枚剥がしてくる。
富子は台所から声を上げる。
「太郎ー、ちょっと出てー!」
早い。
判断が早い。
「何で俺」
「手が離せないの!」
たしかに、富子は鍋の前だ。
良子はひなの相手をしていて、ひなは床に広げた色鉛筆だかシールだかの世界に没頭している。
つまり、今この家で最も手が空いているのは、客観的には俺だった。
それが気に入らない。
だが、否定できない。
「……確認だけだぞ」
「いいから早く!」
俺は立ち上がった。
インターホンが鳴ってから出るまでの時間としては、たぶんギリギリ普通寄りだろう。
この成長を誰も評価しないのが家族というものだ。
玄関横のモニターを見る。
映っていたのは宅配便だった。
黒田さん。
今日はいつもの淡々とした顔に加え、少し大きめの段ボールを抱えている。
問題ない。
少なくとも営業でも親戚でもない。
俺は一呼吸置いて玄関へ向かった。
ドアを開ける。
「……どうも」
「お届け物です」
黒田さんはいつも通り短い。
ありがたい。こういう仕事の人には、ほんとうに頭が上がらない。
受け取りのサインをして、段ボールを抱える。
見た目より少し重い。
送り主を見ると、父さんからだった。
「また?」
思わず小さく呟く。
「はい?」
「いや、何でもない」
危ない。
配達員相手に家族感想を漏らすな。
ドアを閉め、段ボールを抱えたままリビングへ戻る。
富子が鍋の火を見ながら声をかけた。
「誰だった?」
「宅配。父さんから」
「あら、そう」
良子も顔を上げる。
「また何か送ってきたの?」
「知らん。開けてない」
「どうせよくわかんない健康グッズじゃない?」
その可能性は高かった。
父さんは単身赴任先から、たまに妙なものを送ってくる。地方名物、健康茶、謎のサプリ、肩が楽になるとかいうクッション。悪意はない。たぶん、何か送りたいのだろう。だが、毎回ちょっとずれている。
ひなが段ボールを見上げる。
「おじいちゃん?」
「そうだな」
「なにかな」
「知らん」
その時、台所から富子が言った。
「ちょっとそれ、そのへん置いといて。あとついでに、充電器どこ行ったか見てくれない?」
「は?」
「スマホの。さっきまであったのに」
雑だな。
今、宅配対応を終えたばかりなのだが。
任務終了直後に次任務を接続するな。
「どこで使った」
「台所」
「最後に置いたのは」
「このへん」
“このへん”ほど情報量のない言葉もない。
だが、富子の“このへん”は本当にこのへんなのだろう。
俺は段ボールを壁際へ置き、台所のカウンター周辺を見る。
スマホ。メモ。買い物袋。布巾。小さな調味料の瓶。
充電器だけがない。
「良子、触ってないか」
「知らないよ」
ひなも首を振る。
「ひな、しらない」
よし。
犯人探しではない。流れを読む。
富子は料理中に一度レシピ動画か何かを見たはずだ。
そこから鍋へ戻り、布巾を持ち、たぶん一回冷蔵庫も開けている。
その動線で落ちる場所、引っかかる場所、押しやられる場所。
俺はカウンターの端に積まれた新聞をどかした。
その下に白いケーブルが半分だけ見えている。
「あった」
「早」
良子が笑う。
富子がちらっと振り返る。
「あらほんと。助かる」
「物を紙の下に埋めるなよ」
「埋めた覚えはないのよ」
だろうな。
生活というのは、埋めるつもりのないものを勝手に埋める。
ひなが感心したように言う。
「たんていおじさんだ」
「その呼び方は定着させるな」
だが、そのやり取りの直後、今度は良子が声を上げた。
「あ、ちょっと待って。ひな、色鉛筆一本どこやったの」
「え?」
「さっき赤使ってたでしょ」
「つかった」
「ないじゃん」
何なんだ今日は。
ひなは床に広げた道具の中を慌てて探し始める。
良子も一緒になって見る。
だが、赤だけがないらしい。
「ちゃんとしまっときなさいよー」
富子が台所から投げる。
それに対し、ひなが半泣きまではいかないが不満そうに返す。
「しまうまえにつかうもん!」
正論である。
俺はさっき見つけた充電器を富子に渡しながら、ついでに床の方へ目をやった。
赤の色鉛筆。
床に落ちたなら目立つ。
だがない。
ということは、紙の下か、クッションの影か、あるいは転がったか。
「ひな、最後にどこで使った」
「ここ」
「その後立った?」
「ジュースのんだ」
「またジュースか」
生活の流れはだいたい同じところで物を飲み込む。
俺はソファの下を覗き込んだ。
案の定、奥に赤いものが見える。
「ほら」
手を伸ばして取り出す。
「あった!」
ひながまた明るくなる。
良子が呆れ半分で言う。
「何なのほんとに」
「床に落ちて転がっただけだ」
「何で一発でそこ見るの」
「この家はだいたいそういう消え方するからだよ」
言いながら、自分でもちょっと笑いそうになる。
家の癖を知りすぎている、というのは客観的に見ると微妙かもしれない。
だが、役に立つなら悪くない。
色鉛筆をひなへ返すと、ひなは素直に受け取って、今度はちゃんとケースへ戻した。
さっきのヘアゴム事件が学習になっているらしい。
「えらい」
富子が言う。
「ひなが?」
「太郎が」
「そっちかよ」
「今日はよく働くじゃない」
その言い方だと普段働いていないことの確認でもある。
いや、事実だが。
俺は軽く眉をしかめつつ、壁際の段ボールへ目をやった。
「これ開けるのか」
「あとでいいわよ。今忙しいから」
「じゃあ開けない」
「でも中身だけ確認しといて。食べ物かもしれないし」
面倒だな。
俺はしゃがみ込み、段ボールを開ける。
中には地方の菓子と、健康によさそうな謎のパックジュース、それから父さんからの簡単なメモが入っていた。
『暑いので身体に気をつけて。ひなちゃんにも』
短い。
だが父さんらしい文面だ。
「何入ってた?」
良子が聞く。
「菓子と、よくわからん健康っぽいジュース」
「やっぱり」
「あとメモ」
「何て?」
「身体に気をつけて、だと」
「ふーん」
良子はそれ以上突っ込まず、ひなに菓子を見せに行った。
父さんの名前が出ると、家の中の空気は少しだけ変わる。重くなるほどではないが、わずかに別の層が差し込む感じがある。
俺はメモを箱へ戻そうとして、ふと段ボールの下に小さな紙袋があるのに気づいた。
「何だこれ」
取り出す。
中には個包装のゼリーらしきものが入っていた。たぶん子ども向けだ。
ひなが目ざとく見つける。
「なにそれ」
「ゼリーじゃないか」
「ひなの?」
「たぶん」
「やった!」
今日、何回目の“やった”だろう。
子どもの喜びは音として強い。
富子が台所から笑う。
「おじいちゃん、ひなの分ちゃんと入れてくれてたのね」
「珍しく気が利くじゃん」
「珍しくって何よ」
良子と富子がそんなやり取りをする。
俺は箱のふたを閉じながら、小さく息を吐いた。
すると今度は、ひながテーブルの上を見て首をかしげた。
「あれ?」
嫌な予感がした。
「今度は何」
「シール、いっこない」
「またかよ」
良子が笑う。
俺も思わず額を押さえた。
だが、ひなの顔が本気で曇る前に、俺はもう動いていた。
「どんなやつ」
「きらきらの、うさぎ」
「さっきどこ貼ろうとしてた」
「ここ」
「貼ってないのか」
「まよってた」
よし。
迷ってる間に指についたか、紙にくっついたか、服に張りついたか。
俺はテーブルの上の冊子を持ち上げた。
裏に張りついている。
「あったぞ」
「えっ、はや」
良子がとうとう声に出して笑った。
「何その索敵能力」
「適当な言葉使うな」
「でももう完全にそうじゃん」
ひなはシールを受け取ると、今度は俺の顔を見て、前よりずっと自然な声で言った。
「おじさん、ありがとう」
それは、前みたいな“すごい”とは少し違った。
もっと普通で、もっと当たり前みたいな言い方だった。
その方が、なぜか少しだけ効いた。
「……別に」
「またそれ言ってる」
良子が笑う。
「素直にいたしましてって言えば?」
「その言い方はおかしいだろ」
「どういたしまして、でしょ」
「わかってるよ」
わかっている。
だが、口がそういう反応を選ばないのだ。
ひなはもうシールを貼る作業に戻っていた。
富子は鍋の火を弱め、良子は手を洗って台所へ向かう。
その一連の流れが、ごく自然に続いていく。
そして俺は、その流れの中で、今日はやけに何度も呼ばれ、頼られていることに気づいた。
大げさなものではない。
インターホンに出る。
充電器を見つける。
色鉛筆を拾う。
シールを探す。
どれも、言ってしまえば小さいことだ。
それだけで人生が変わるわけでもない。
外から見れば、家の雑務を少し片づけただけの中年でしかない。
だが、その“小さいこと”が続くと、何となく家が回る。
それはたぶん、ずっと富子が一人でやってきたことの一部で。
俺は今、その端っこを少しだけ受け持っただけなのかもしれない。
夕飯が並び始める。
テーブルに皿が置かれ、箸が出され、富子が「運んで」と言えば良子が動く。
その流れの中で、俺も何となく皿を一枚運んだ。
良子がそれを見て、一瞬だけ目を丸くした。
だが何も言わない。
富子も言わない。
ただ、そのまま食卓が整っていく。
食事の前、ひなが自分の席に座って、箸を持つ前にこっちを見た。
「おじさん」
「何」
「今日、いっぱいみつけたね」
俺は少しだけ笑いそうになった。
「まあな」
「すごい」
「だから大げさだって」
「でも、たすかった」
その“たすかった”は、やっぱりまっすぐだった。
俺は数秒だけ言葉に詰まってから、ようやく小さく返した。
「……ならいい」
それだけで十分だった。
夕飯の匂いが広がる。
富子が味噌汁をよそい、良子がひなにおしぼりを渡し、テレビの音が少し下げられる。
家の夜が始まる。
その中で俺は、自分の席に着きながら、ふと思った。
何も大きくは変わっていない。
俺は相変わらず実家暮らしで、昼にはインターホンに緊張し、夜にはコンビニのレジを引きずるような男だ。
それでも――
家の中なら。
この家の中で起きる、小さな面倒ごとくらいなら。
俺にも、少しはできることがあるのかもしれない。
富子が味噌汁を置きながら言った。
「ほら、食べるわよ」
良子が箸を取り、ひなが手を合わせる。
「いただきます!」
その声に合わせて、俺も小さく言った。
「……いただきます」
大したことのない、いつもの夕飯だった。
だが、その“いつも”の中に、今日はほんの少しだけ、自分の手が入っている気がした。
それは劇的な変化ではない。
胸を張るほどのことでもない。
ただ、ゼロではなかった。
食事のあと、自室へ戻る。
ドアを閉める。
薄暗い、いつもの空気。
机。ベッド。棚。変わらない自分の城。
椅子に座り、しばらく何もせずにいた。
階下からは、食器を片づける音と、ひなの笑い声が小さく聞こえる。
その音を聞きながら、俺はゆっくり息を吐いた。
「……まあ」
独り言が漏れる。
「家の中なら、俺にもできることはある」
それは決意というほど立派なものではない。
明日になればまた、だるいだの面倒だの言いながら布団の上でだらけているだろう。
インターホンが鳴れば緊張するし、コンビニでは相変わらず余計なことを気にする。
それでも、今日のことは今日のこととして残る。
変なおじさん。
探し物係。
たんていおじさん。
どれも微妙な呼ばれ方だ。
だが、何もないよりは少しだけましだ。
俺は机の上のスマホを手に取り、画面をつけた。
通知はいくつか来ている。
掲示板も回っている。
いつもの夜が、すぐそこまで来ていた。
だが、今日はその前に少しだけ、静かなままでいたかった。
部屋の中は変わらない。
それなのに、世界がほんのわずかだけ広がった気がした。
たぶん、それくらいでいいのだと思う。
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