第6話 義妹が初めて甘えてくれました
ルシアちゃんが私を守ってくれた、あの日から数日が経った。
訓練場で見せてくれた見事な剣さばきは、今でも鮮明に覚えている。あんなに小柄で可愛らしいのに、大きな騎士さんをあっという間に倒してしまうなんて、本当に驚いてしまった。
けれど、私にとって一番嬉しかったのは、強さそのものではない。
危険な目に遭った私を心配し、怪我がないか何度も確かめてくれたことだ。
ルシアちゃんは口数こそ少ないけれど、とても優しい子なのだと思う。
そんなことを考えながら、私は自室で針を動かしていた。
手元にあるのは、白い布地の小さなハンカチ。隅には淡い水色の花を刺繍している。
先日、街で購入した糸を使って、ルシアちゃんへの贈り物を作っているところだった。
(もう少しで完成ね。喜んでくれるといいのだけれど)
ひと針ずつ丁寧に縫い進めながら、私は完成したときのルシアちゃんの顔を想像する。
きっと、いつものように少し驚いた顔をして、それから小さな声でお礼を言ってくれるのだろう。
そんな姿を思い浮かべるだけで、自然と笑顔になってしまう。
けれど、刺繍は思っていたよりも時間がかかり、気づけば昼食の時間が近づいていた。
私は一度針を置き、ハンカチを丁寧に畳んで引き出しへしまった。
午後になったら、また続きをしよう。
そう考えながら昼食を済ませ、いつものように庭園へ向かった。
❀ ❀ ❀
午後の庭園は、柔らかな陽射しに包まれていた。
噴水の水音が心地よく響き、花壇には色とりどりの花が咲いている。
最近はこの時間になると、ルシアちゃんが庭園のどこかにいることが多い。特に約束をしているわけではないけれど、自然と顔を合わせるのが日課のようになっていた。
けれど、今日はいつものベンチにも、噴水の近くにも姿が見当たらない。
(あら、今日はお忙しいのかしら?)
少し残念に思いながら歩いていると、ちょうどセドリックさんが屋敷から出てくるところだった。
「セドリックさん、こんにちは。あの、今日はルシアちゃんを見かけていないのですが、何かご用事があるのかしら?」
「奥様。……本日は、少々お疲れのご様子でございまして」
「まあ、そうなのですか? どこか具合が悪いのでしょうか?」
「いえ、ご病気というわけではございません。ただ、ここ数日はお忙しかったものですから」
「そうだったのですね……」
私は少し心配になった。
ルシアちゃんは普段からあまり自分のことを話さないし、疲れていても無理をしてしまいそうなところがある。
先日の訓練場でも、あんなに強い姿を見せてくれたけれど、だからといって疲れないわけではないはずだ。
「もしお会いできたら、ゆっくり休むように伝えてください。私も、今日は無理に誘わないようにしますね」
「……ありがとうございます、奥様」
セドリックさんは、どこか安心したように頭を下げた。
私は軽く会釈を返し、庭園の散歩を続けることにした。
今日はルシアちゃんも休んでいるのだろう。
そう思っていたのだけれど、庭園の奥にある東屋へ近づいたとき、見覚えのある銀色の髪が目に入った。
(あら……ルシアちゃん?)
東屋の椅子に、ルシアちゃんがひとりで座っていた。
いつもより少し肩を落とし、ぼんやりと庭を眺めている。
その顔色はあまりよくなく、青い瞳にも普段のような力が感じられなかった。
私は驚いて、そっと近づいた。
「ルシアちゃん、こんなところにいたのね。今日は少し疲れているみたいだけれど、大丈夫?」
声をかけると、ルシアちゃんはゆっくりと顔を上げた。
私に気づくと、ほんの少しだけ表情が和らぐ。
「……ああ。問題ない」
「そう? でも、少し顔色が悪いわよ。無理をしていない?」
「……していない」
そう答える声には、いつもの張りがなかった。
私はそれ以上問い詰めず、隣の椅子を指さした。
「少しだけ、一緒に座っていてもいいかしら?」
「……ああ。構わない」
私はルシアちゃんの隣に腰を下ろした。
東屋には涼しい風が吹き込み、庭園の花々が静かに揺れている。
しばらくは何も話さず、2人で景色を眺めていた。
ルシアちゃんはときどき目を伏せ、眠気をこらえるように瞬きをしている。
その様子が気になり、私はそっと声をかけた。
「ルシアちゃん、眠たいのなら、お部屋で少し休んだほうがいいんじゃないかしら?」
「……休む、か」
「ええ。疲れているときは、無理をしないのが一番よ。温かいお茶を飲んで、ゆっくり眠るだけでも違うと思うわ」
ルシアちゃんは少し考えるように視線を落とした。
そして、ぽつりと呟く。
「……休み方が、よくわからない」
思いがけない言葉に、私は目を瞬かせた。
休み方がわからないなんて、どういうことだろう。
けれど、ルシアちゃんの表情は真剣だった。
冗談を言っているわけではなさそうだ。
「ルシアちゃん……。もしかして、いつも何か頑張りすぎているんじゃない?」
「……別に、普通だ」
「そうかしら。でも、疲れているのに休めないのは、少し心配だわ」
私がそう伝えると、ルシアちゃんは黙り込んだ。
しばらくして、静かな声が返ってくる。
「……休んでいる間に、何か起きたらどうする」
「えっ?」
「……俺がやらなければ、誰かが傷つく。だから、簡単には休めない」
その言葉を聞いて、私は胸が少し苦しくなった。
ルシアちゃんは、まだ若いのに何か大きな責任を背負っているのかもしれない。
公爵家の一員として、あるいは剣術に関わる何かで、周囲から期待されているのだろうか。
けれど、どんな理由があったとしても、疲れているときに休めないなんて悲しいことだ。
「ルシアちゃん。頑張るのはとても立派なことだと思うわ。でも、誰かを守る人にも、休む場所は必要だと思うの」
「……休む場所?」
「ええ。いつも強くいようとしなくてもいい場所よ。疲れたときには疲れたって言って、少し甘えたっていいんじゃないかしら」
ルシアちゃんは、私の顔をじっと見つめた。
その青い瞳には、どこか戸惑うような色が浮かんでいる。
「……弱いところを見せれば、皆が不安になる」
「そうかもしれないわ。でも、ルシアちゃんだって、疲れることはあるでしょう? ずっと頑張り続けていたら、いつか倒れてしまうわ」
私は少しだけ身を乗り出し、優しく微笑んだ。
「少なくとも、私の前では無理をしなくていいのよ。ルシアちゃんが疲れていたら、私はゆっくり休んでほしいもの」
「……お前は、俺が弱くても構わないのか?」
「もちろんよ。強くても弱くても、ルシアちゃんはルシアちゃんでしょう?」
そう答えると、ルシアちゃんは目を見開いた。
そして、ゆっくりと視線を落とす。
しばらく沈黙が続いたあと、小さな声が聞こえてきた。
「……お前といると、少し楽だ」
私は思わず笑顔になった。
そんなふうに思ってくれていたなんて、嬉しくて仕方がない。
「本当? それなら、とっても嬉しいわ。私もルシアちゃんと一緒にいる時間が大好きよ」
そう伝えると、ルシアちゃんは少しだけ頬を赤くした。
けれど、いつものように視線を逸らすことはなく、静かに私を見つめていた。
❀ ❀ ❀
それからしばらく、私たちは他愛のない話をして過ごした。
昨日のお菓子のことや、庭園に咲いている花のこと。ルシアちゃんは相変わらず口数が少なかったけれど、私の話を静かに聞いてくれていた。
やがて、彼女が小さく欠伸をした。
慌てて口元を押さえる姿が可愛らしくて、私は思わず微笑んでしまう。
「ふふっ、やっぱり眠たいのね。お部屋に戻って、少し休みましょうか?」
「……いや」
「あら、どうして?」
「……もう少し、ここにいたい」
その言葉に、私は少し驚いた。
けれど、すぐに嬉しくなって頷く。
「もちろんよ。私も、もう少しルシアちゃんと一緒にいたいわ」
ルシアちゃんは小さく息を吐き、再び庭園へ視線を向けた。
風が吹くたびに銀色の髪が揺れ、頬にかかっている。
私はその横顔を眺めながら、こんなふうに穏やかな時間を過ごせることが幸せだと思った。
しばらくすると、ルシアちゃんがこちらを向いた。
何か言いたそうにしているけれど、なかなか口を開かない。
私は急かさず、言葉を待つことにした。
「……ひとつ、頼んでもいいか?」
「もちろんよ。どうしたの?」
「……少しだけ、寄りかかってもいいか?」
思いがけないお願いに、私は目を丸くした。
ルシアちゃんが、自分から甘えてくれるなんて。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「もちろんよ。疲れているなら、遠慮しないで。私の肩でよければ、いくらでも貸してあげるわ」
私がそう答えると、ルシアちゃんは少しだけ迷ったあと、ゆっくりと身体を傾けた。
そして、私の肩にそっと頭を預ける。
銀色の髪が頬に触れ、柔らかな感触が伝わってきた。
思っていたよりも軽い重みが肩にかかり、私は動かないようにそっと姿勢を整えた。
「ふふっ、どう? 少しは楽になった?」
「……ああ。悪くない」
小さな返事が聞こえた。
私はその言葉に微笑み、静かに庭園を眺めた。
普段は凛としていて、どこか近寄りがたい雰囲気さえあるルシアちゃん。
けれど、今はこうして私の肩に寄りかかり、安心したように目を閉じている。
その姿を見ていると、守ってあげたいという気持ちがますます強くなった。
(ルシアちゃん、いつも頑張っているのね。せめて私といるときくらい、ゆっくり休んでほしいわ)
私はそっと、ルシアちゃんの銀色の髪を撫でた。
さらさらとした髪が指の間を流れ、ルシアちゃんは小さく息を吐く。
嫌がる様子はなく、むしろ少しだけ身体の力が抜けたように感じた。
それから、しばらくして。
肩にかかる重みが、ほんの少し増した。
顔を覗き込むと、ルシアちゃんは静かに眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえ、青い瞳は閉じられている。
普段の凛とした表情とは違い、寝顔はとても穏やかで、年相応のあどけなさがあった。
「ふふっ、お疲れさま。今日はゆっくり休んでね」
私は小さな声でそう囁き、もう一度優しく髪を撫でた。
起こしてしまわないように、できるだけ身体を動かさずにいる。
少し肩は重くなってきたけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、こうして安心して眠ってくれていることが嬉しかった。
どれくらい時間が経っただろう。
ふと足音が聞こえ、東屋の入り口にセドリックさんが現れた。
彼は私たちの姿を見るなり、驚いたように立ち止まった。
「……奥様、これは……」
私は人差し指を口元に当て、小さく微笑んだ。
「しーっ。ルシアちゃん、疲れていたみたいで、眠ってしまったんです。起こさないであげてくださいね」
セドリックさんは、眠っているルシアちゃんをじっと見つめた。
その表情には驚きが浮かんでいたけれど、やがて少しだけ柔らかくなる。
「……承知いたしました。奥様。どうか、そのままお休みいただければと存じます」
「ええ。私も、もう少しここにいるつもりです」
そう答えると、セドリックさんは深く頭を下げ、静かにその場を離れていった。
私は再びルシアちゃんへ視線を戻した。
きっと、普段はあまり人前で眠ったりしない子なのだろう。
だからこそ、こうして安心して休んでくれていることが、何より嬉しかった。
❀ ❀ ❀
夕方になり、庭園が柔らかな橙色に染まり始めた頃。
ルシアちゃんが、ゆっくりと目を開けた。
しばらくぼんやりとした表情で庭を眺めていたけれど、自分が私の肩に寄りかかっていることに気づくと、慌てて身体を起こした。
「……悪い。眠っていたのか」
「ふふっ、ええ。とっても気持ちよさそうに眠っていたわよ」
「……重かっただろう」
「全然。むしろ、頼ってくれて嬉しかったわ」
私が笑顔で答えると、ルシアちゃんは少しだけ視線を逸らした。
その頬が、ほんのり赤くなっている。
「……そうか」
「ええ。だから、また疲れたときには遠慮なく言ってね。私の肩でよければ、いつでも貸してあげるわ」
ルシアちゃんは、しばらく私を見つめていた。
そして、小さな声で尋ねる。
「……また、こうしてもいいか?」
「もちろん! ルシアちゃんは、私の前では無理して強がらなくていいのよ」
その言葉を聞いたルシアちゃんは、ゆっくりと微笑んだ。
それから、そっと私の手を握ってくれる。
私はその手を優しく握り返し、隣に座るルシアちゃんを見つめた。
誰よりも強く見えるルシアちゃんにも、甘えたいときがある。
そんなときに帰ってこられる場所に、私がなれたら嬉しい。




