第9話
あの紫の花のことが、アリシアの頭から離れなかった。
毒草と恐れられ、誰も近寄らぬ花。けれど、彼女の記憶の奥には、確かな引っかかりがあった。
ある朝、アリシアは古い書物を抱え、村はずれの斜面へと向かった。あの花が群れ咲く、青紫の一帯へ。
「お嬢様、本当に触れて大丈夫なんで……?」
付き従う村人が、不安そうに声をかける。
「ええ。少し、確かめてみたいことがあるの」
アリシアは膝を折り、花の一輪に顔を近づけた。手袋越しに、そっと花弁に触れ、茎を折り、葉の裏を検める。色、形、香り、汁の質。ひとつひとつを、抱えてきた書物と丹念に照らし合わせていく。
そして──彼女の目が、見開かれた。
「やはり、そうだわ」
「な、何がでございますか?」
「これは、毒草ではありません」
アリシアは、折り取った花を掲げてみせた。
「正しくは、毒もある花。けれど、その本当の価値は別にあります。茎と花弁を、正しい手順で煮出して灰汁を加えれば──二つとない、鮮やかな染料になる。それも、極めて上質な」
村人は、ぽかんと口を開けた。
「染料……? この、呪われた花が?」
「呪われてなどいません。ただ、扱い方が忘れられていただけ」
アリシアは、書物の一節を指でなぞった。古い記録には、かつてこの地で、この花から染料を作っていたという記述が残っていた。
「昔は、ここでこの花を加工していたのでしょう。けれど、人が減り、村が寂れるうちに、その手間のかかる加工法が、誰にも受け継がれなくなった。だから、ただの毒草として恐れられるようになったのです」
失われた技術。忘れられた価値。
誰も気づかぬまま、宝は荒れ地に咲き乱れ、ただ恐れられていたのだ。
*
その日の夜、アリシアは灯りのもとで、思索を深めていた。
もし、あの花を染料として蘇らせることができれば。
この領には、他にない特産品が生まれる。荒れ地に厄介者として咲く花が、現金収入の源に変わる。痩せた土地でも育つということは、むしろこの地に最も適した産業になりうる。肥沃な平野を持つ他領には、決して真似のできない強みだ。
(加工法を再現する。販路を見つける。そうすれば──)
頭の中で、構想が次々と繋がっていく。雇用が生まれ、村に活気が戻り、人が集まる。一輪の花から、領全体の再建へと、道筋が一本に伸びていく。それは、ただの思いつきではなかった。書物の裏付けと、土地の特性と、彼女自身の知識が、すべて指し示す確かな道だった。
アリシアは、机に広げた花を見つめ、静かに微笑んだ。
「あなたが、この領を救う鍵になるのね」
厄介者と蔑まれてきた花。それは、まるで──「家柄しか取り柄がない」と捨てられた、かつての自分のようだった。
価値がないと決めつけられ、見向きもされず、それでも、ただ咲き続けていた。
けれど、本当は違う。見る目さえあれば、正しく扱う術さえあれば、何にも代えがたい輝きを放つのだ。誰かに認められるためではなく、ただ自らの内に、確かな価値を秘めている。それは、揺るがない。
「待っていてちょうだい。あなたの本当の色を、世に示してみせるから」
窓の外では、月明かりに照らされて、斜面の花々が静かに揺れていた。
まだ誰も知らない。この一輪の花が、やがてグレンツェの名を、王国中に轟かせることになるとは。そして、かつてこの花を恐れていた村人たちが、いつの日かこの花に誇りを抱くようになることも。
再建の青写真が、今、確かな一歩を踏み出した。




