第8話
帳簿の上だけでは、領は動かない。
アリシアは、そう理解していた。どれほど正確に問題を把握しようと、領民の心が動かなければ、何ひとつ変わらないのだ。
だから彼女は、自ら畑に出た。
*
朝、村のはずれの枯れた井戸に、アリシアの姿があった。
絹のドレスの裾を絡げ、髪を布で覆い、彼女は井戸の底をのぞき込んでいた。長く使われず、土砂で埋もれかけたその井戸を、もう一度使えるようにしようというのだ。
「お嬢さ……いえ、領主様。そんなこと、わたしらがやりますで」
近くの村人が、慌てて駆け寄った。令嬢が泥にまみれる姿など、見ているこちらが落ち着かない。
「いいえ、一緒にやりましょう」
アリシアは振り返り、にっこりと微笑んだ。
「わたくしは、この領のことを何も知りません。だから、まず自分の手で触れて、知りたいのです。井戸の深さも、土の重さも」
そう言って、彼女は躊躇いなく、桶を手に取った。
はじめ、村人たちは戸惑い、遠巻きに眺めるばかりだった。これまでの領主や役人は、館にふんぞり返り、命じるばかりだった。自ら泥にまみれる者など、見たことがない。
けれど、アリシアは黙々と働き続けた。
慣れない手つきで土を運び、息を切らし、汗を流し、それでも投げ出さなかった。手のひらが擦り切れ、爪の間に泥が入り込んでも、彼女は手を止めなかった。日が高く昇るにつれ、その額には玉の汗が浮かび、上等だったドレスはすっかり泥に汚れていった。
けれど、当のアリシアは少しも気にする様子がない。むしろ、井戸の底から少しずつ土砂が減っていくたび、嬉しそうに目を輝かせていた。
その姿に、村人たちの心が、少しずつ動き始めた。
「……手伝いますわ、領主様」
一人の老婆が、おずおずと近づいてきた。
「そんな細い腕で。さ、こっちは任せてくだせえ」
やがて、二人、三人と、村人が集まってくる。気づけば、井戸の周りには人の輪ができていた。誰もが袖をまくり、共に土を運び、声を掛け合っている。
半日後、井戸の底から、澄んだ水が湧き出した。
久しく涸れていた井戸に、再び水が満ちる。それを見つめる村人たちの顔に、かすかな驚きと、ささやかな喜びが浮かんでいた。
「水が……出た」
「ああ、何年ぶりだろうな」
アリシアは泥だらけの手で額の汗を拭い、満ちていく水面を、満足げに見つめた。
*
その様子を、少し離れた木陰から見つめる影があった。
騎士団長ディートハルトだった。
彼は腕を組み、無言で一部始終を眺めていた。あの令嬢が、本当に泥にまみれて働くとは。半ば、すぐに音を上げると踏んでいた。
(……妙な女だ)
口先だけの貴族なら、これまで嫌というほど見てきた。命じるだけで、自らは指一本動かさない者ばかりだった。
だが、あの女は違う。汗を流し、手を汚し、村人と同じ目線で働いている。その姿は、彼の予想を、ことごとく裏切っていた。
「……ふん」
ディートハルトは、小さく鼻を鳴らした。
まだ、認めたわけではない。ほんの気まぐれかもしれない。一度や二度、畑に出たくらいで、領が変わるわけでもない。
それでも──彼の中で、頑なに閉ざしていた何かが、ほんのわずかに、緩んだのは確かだった。
遠くで、村人たちの笑い声が上がる。その輪の中心で、泥だらけのアリシアが、屈託なく笑っていた。
その笑顔を、ディートハルトは思わず、目で追っていた。
最初の一歩は、ほんの小さなものだった。けれど確かに、グレンツェの冷えきった空気が、ほんの少しだけ、温度を取り戻し始めていた。




