第7話
領主としての最初の仕事は、現状を正しく知ることだった。
アリシアは、領主館に長年仕えてきた老家令オットーを呼び寄せた。白髪の老人は、腰こそ曲がっていたが、その眼差しには確かな知性が宿っていた。
「オットー。この領の帳簿を、すべて見せてくれますか。一枚も残さず」
「……かしこまりました」
老家令は、わずかに驚いた表情を浮かべた。これまでの役人たちは、帳簿になど目もくれず、ただ税を取り立てて去っていくばかりだった。自ら帳簿を読もうという領主は、久しく現れていなかったのだ。
*
運び込まれた帳簿の山は、埃をかぶり、黄ばんでいた。
アリシアは灯りのもと、一枚一枚に丹念に目を通していった。数字を追い、年ごとの収支を照らし合わせ、気になる箇所には印をつける。
幾晩も、その作業は続いた。
そして──彼女は、ある異変に気づいた。
「オットー。この数字、おかしいわ」
「と、おっしゃいますと?」
「収穫高に対して、領に残る取り分があまりに少なすぎる。途中で、誰かが抜き取っている。それも、長年にわたって、組織的に」
アリシアは帳簿の一点を指さした。
「本来この村から上がるはずの収入が、ここで不自然に目減りしている。税として徴収された分が、王都へ送られる過程で、まるで霧のように消えているの」
オットーの顔から、血の気が引いた。
「……お気づきに、なられましたか」
老家令は、声を落として語り始めた。
長年、この領では役人による中間搾取が横行していた。徴収された税の一部が、正規の経路をたどらず、どこかへ吸い上げられていく。誰が、何のために。それは、末端の家令には知りようもなかった。
「皆、薄々は気づいておりました。ですが、相手は王都の役人。声を上げれば、潰される。だから、誰も何も言えず……この領は、ただ痩せ細っていくばかりでございました」
「なるほど」
アリシアは、静かに帳簿を閉じた。
胸の奥で、冷たい違和感がゆっくりと形を取っていく。
(おかしいわ。これは、ただの放漫経営や、役人の小狡さでは説明がつかない)
単なる横領にしては、あまりに長く、あまりに一貫している。まるで、この領が豊かになることを、誰かが意図的に妨げ続けてきたかのようだ。
(この荒廃は……自然のものではないのかもしれない)
その考えが浮かんだ瞬間、背筋にぞわりと冷たいものが走った。
もし、そうだとしたら。この痩せた土地も、逃げ出した領民も、減り続ける人口も──すべてが、誰かの意志によって仕組まれたものだとしたら。
「オットー。この帳簿、しばらくお借りします。それから──不審な経路について、わかることがあれば、何でも教えてほしいの」
「は……? しかし、危のうございます。深入りなさっては──」
「立て直すためには、まず病巣を知らねばなりません」
アリシアの瞳には、もう迷いはなかった。
「荒廃の原因が人の手にあるのなら、その手を突き止めて、断ち切ればいい。それだけのことです」
毅然としたその言葉に、オットーは思わず息を呑んだ。
長く仕えてきたこの老人にも、わかった。この若い女領主は、これまでの誰とも違う。ただ嘆くのではなく、原因を見据え、立ち向かおうとしている。その背に宿る覚悟は、本物だった。
「……承知いたしました。この老骨、できる限りのことをいたしましょう」
深々と頭を下げる老家令を前に、アリシアは小さく頷いた。
立て直しの糸口と、見えざる黒幕の影。その双方が、埃をかぶった帳簿の中から、静かに芽を出した瞬間だった。




