第4話
旅立ちの朝は、薄い霧に包まれていた。
わずかな従者を伴い、アリシアは古びた馬車に乗り込んだ。豪奢な紋章馬車ではない。無爵の身となった彼女に、もはやそんなものは用意されなかった。
屋敷の門前に、見送りの姿はなかった。両親は寝室から出てこず、妹は窓の奥でちらりとこちらを見たきり、すぐにカーテンを引いた。
それでよかった。
馬車が動き出すと、アリシアは一度だけ生まれ育った屋敷を振り返り、すぐに前を向いた。過去はもう、背後に流れていく景色のひとつに過ぎない。
*
旅は、長かった。
幾日も馬車に揺られ、王都の整った街並みは遠ざかり、やがて窓の外には荒れた田畑と、まばらな集落ばかりが広がるようになった。
石畳は途切れ、道はぬかるみへと変わる。北へ進むほど、土地は痩せ、空気は冷たくなっていった。
だが、アリシアは退屈しなかった。
膝の上には、あの古びた帳面が広げられている。家庭教師から学んだ農学、経済、地理の知識を、彼女は一つずつ反芻していた。
(この土の色……痩せてはいるけれど、灌漑次第では蘇るはず)
窓越しに流れる景色を見ながら、頭の中では絶えず思考が回っている。あの丘の傾斜なら段々畑が組める。あの川の流れを引けば、用水路になる。荒れた土地は、彼女の目には課題と可能性の宝庫として映った。
「家柄しか取り柄がない、か……」
ふと、元婚約者の言葉が口をついて出た。
けれど、もう痛みはなかった。
(あなたは知らない。わたくしには、誰も気づいていない武器がある)
社交界では何の価値もないと笑われた知識。けれど、これから向かう地では、それこそが何よりの力になる。アリシアは確信していた。
馬車の天井を打つ雨音を聞きながら、彼女は帳面の余白に、思いついた構想を書き留めていく。作付けの順序、人を呼び戻すための税の見直し、特産になりうる作物。まだ見ぬ土地への計画は、書けば書くほど、彼女の中で確かな輪郭を結んでいった。
*
道中、馬車はある寒村で一夜の宿をとった。
宿の主人は、アリシアが北のグレンツェへ向かうと知ると、気の毒そうに眉をひそめた。
「あんな果ての地へ、お嬢さんが? やめておきなさい。あそこはもう、人の住む場所じゃありませんや」
「と、おっしゃいますと?」
「土地は痩せ、税ばかり重い。若い者はみな逃げ出して、残ったのは年寄りばかり。おまけに領主館も、長らく空いたままだと聞きますよ」
主人は同情めいた口ぶりで、なおも言い募った。
「悪いことは言わねえ。引き返しなさるがいい」
アリシアは静かに微笑み、首を横に振った。
「ご忠告、感謝します。けれど──痩せた土地ほど、肥やせば見違える。逃げた人ほど、戻る理由を作ればいい。違いますか?」
主人は呆気にとられたように口をつぐんだ。
この若い令嬢の言葉には、世間知らずの夢物語とは違う、奇妙な確かさがあった。
*
翌朝、馬車は再び北を目指して走り出した。
行く手に、雪を頂いた山脈の稜線がうっすらと見え始める。その麓に、彼女の新しい領──グレンツェがある。
車輪が荒れた轍を踏むたび、馬車は大きく揺れた。けれどアリシアの背筋は、まっすぐに伸びたままだった。
(待っていて。今、行くわ)
膝の帳面をそっと閉じ、彼女は遠い山並みを見据える。
追放された令嬢の旅は、終わりではなかった。これは、誰も知らない逆転の物語の、ほんの始まりに過ぎないのだ。
冷たい風が、馬車の窓を叩く。けれどその風の中にすら、アリシアは新しい土地の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた。




