第3話
婚約破棄から、ひと月が過ぎた頃だった。
一通の手紙が、ヴェルフェンハイム侯爵家に届いた。差出人は、王都の法務官。封蝋を割り、文面に目を走らせたアリシアは、思わず息を止めた。
遠縁の大叔母が、先頃亡くなったという。そして、その遺言により、彼女が治めていた辺境のグレンツェ領を、アリシアが相続することになった──そう記されていた。
「グレンツェ……?」
聞き覚えのない名だった。
アリシアは書棚から地図を引き出し、震える指で辺境をたどる。やがて、王国の北の果て、山脈の麓に小さく記されたその名を見つけた。
記憶の片隅に、かすかな噂がよみがえる。痩せた土地。寂れた村々。年々減り続ける人口。誰も欲しがらない、厄介な土地。それがグレンツェだった。
*
相続の話は、その日のうちに両親の知るところとなった。
アリシアが応接間に呼ばれると、父侯爵は手紙を一読し、ふんと鼻を鳴らした。
「辺境の、しかも荒れ果てた領か。大叔母も酔狂なものだ」
だが、その口ぶりとは裏腹に、父の顔にはどこか安堵の色が浮かんでいた。
「ちょうどよい。お前はそこへ行け。この屋敷にいても、婚約を破棄された娘がいるというだけで、外聞が悪い」
「お父様」
「異論は認めん。これは厄介払い──いや、お前のための、良い縁談がまとまるまでの療養だと思えばよかろう」
言葉の端々から、本音が透けて見えた。両親にとって、これは娘を体よく屋敷から追い払う、またとない口実なのだ。
アリシアは、手の中の手紙にもう一度目を落とした。
相続するのは、領地と統治権のみ。爵位は伴わない。つまり彼女は、侯爵令嬢という肩書きすら失い、「無爵の女領主」として、あの果ての地に立つことになる。
貴族社会において、それがどれほど心許ない立場か、誰よりも彼女自身が理解していた。後ろ盾もなく、爵位もなく、女の身ひとつで荒れた領を治める──正気の沙汰ではない、と多くの者は笑うだろう。
けれど。
(誰も欲しがらない土地。誰も期待していない領主)
アリシアの胸に、ふいに熱いものが込み上げた。
それは、絶望ではなかった。むしろ──自由だった。
ここには、もう自分を縛るものは何もない。両親の体面も、社交界の評判も、「ヴェルフェンハイムの令嬢」という枷も。すべてを失った代わりに、彼女は誰にも指図されず、己の信じる道を歩く権利を手にしたのだ。
「謹んで、お受けいたします」
顔を上げ、アリシアははっきりと告げた。
その声に迷いがないことに、父は意外そうに眉を上げた。みじめに渋ると思っていた娘が、まるで自ら望んだかのように、その厄介な遺産を受け入れている。
「……物好きなことだ。せいぜい、励むがいい」
吐き捨てるように言う父へ、アリシアは深々と一礼した。
*
その夜、彼女は荷造りをしながら、窓の外の星空を見上げた。
冷たく追い払われる旅立ちだ。誰も見送りはしないだろう。妹のクラーラなどは、せいせいしたとばかりに笑っているに違いない。けれど、不思議と心は凪いでいた。
(待っていてちょうだい、グレンツェ)
まだ見ぬ辺境の地を思い、アリシアはそっと拳を握る。
痩せた土地。寂れた村。減り続ける人口。──それらは確かに、絶望の理由かもしれない。
けれど、彼女の目にはもう、別のものが見え始めていた。立て直す余地。育てる余地。何もないからこそ、これから何でも築ける、無限の伸びしろが。
「必ず、あなたを蘇らせてみせる」
星明かりの下、新天地への覚悟が、静かに、けれど確かに固まっていった。




