第2話
ヴェルフェンハイム侯爵家の屋敷に戻ったのは、夜会の翌朝だった。
馬車を降りたアリシアを出迎えたのは、使用人のよそよそしい沈黙と、すでに事情を知った両親の冷えきった視線だった。
応接間に通されるなり、父侯爵は重い溜息をついた。
「よりにもよって、モルゲンシュテルン家に破棄されるとはな」
「お父様、わたくしは──」
「言い訳など聞きたくない」
父は手のひらで遮った。その顔に浮かんでいるのは、娘を案じる色ではなかった。ただ、王家に連なる名門との縁が断たれたことへの、苛立ちだけだ。
「あの縁談に、どれほどの労を費やしたと思っている。それを、お前は……」
傍らの母も、扇で口元を隠したまま冷たく言い添えた。
「破棄された理由が『退屈な女』とは。家の恥でしかありません。しばらく人前には出ないことです」
アリシアは、唇を引き結んだ。
昨夜、衆人環視の中で侮辱されたことよりも、この瞬間のほうが、ずっと深く胸を抉る。両親の関心は、最後まで一度も、娘そのものには向けられなかった。
「……承知いたしました」
それだけ告げて、彼女は一礼する。
もう、ここに自分の言葉を聞いてくれる者はいない。それを悟るのに、多くの説明は要らなかった。
*
自室へ向かう廊下で、妹のクラーラと鉢合わせた。
三つ年下の妹は、姉の姿を認めると、わざとらしく目を丸くしてみせた。艶やかな金髪を揺らし、勝ち誇った笑みを隠そうともしない。
「あら、お姉様。おかえりなさいませ」
「クラーラ」
「聞きましたわ、夜会のこと。ふふ、お姉様らしいこと」
クラーラは扇を広げ、その陰でくすくすと笑う。
「だから言ったでしょう? お姉様は要領が悪いのです。殿方の機嫌の取り方一つご存じない。ただ書物ばかり読んでいたって、殿方は振り向いてくださらないのですわ」
アリシアは黙って妹を見つめた。
反論しようと思えば、いくらでもできた。けれど、この妹に何を言ったところで、響くことはないだろう。クラーラの目に映る姉は、いつだって「自分より劣った、見下してよい相手」でしかないのだから。
「ご忠告、痛み入ります」
淡々と返し、アリシアは妹の脇をすり抜けた。
背後で「まあ、可愛げのない」と呟く声が聞こえたが、振り返りはしなかった。
*
自室の扉を閉めると、ようやく一人になれた。
アリシアは窓辺に立ち、薄曇りの空を見上げる。婚約者に捨てられ、両親に疎まれ、妹に嘲られる。この屋敷の中に、もはや自分の居場所はどこにもなかった。
けれど──不思議と、絶望はなかった。
彼女は机の引き出しを開け、一冊の古びた帳面を取り出した。家庭教師から学んだ、経済、農学、地理。長い年月をかけて書き溜めた、自分だけの知識の集積だった。
ページを繰る指が、そっと文字をなぞる。作物の育て方、土地の見極め方、市場で物の値が動く仕組み。どれも、社交界では何の役にも立たないと笑われてきた知識だ。
(「家柄しか取り柄がない」──いいえ、違うわ)
誰も気づいてはいない。けれど、この頭の中にこそ、自分の本当の財産がある。家名でも、縁談でも、容姿でもない。誰にも奪えない、確かなものが。
彼女は帳面を胸に抱いた。捨てられた今だからこそ、はっきりとわかる。これまで自分を縛っていた「侯爵令嬢」という枠は、外れたのだ。ならば、これからは違う生き方ができるはずだった。
「いつか、必ず」
窓の外を見据え、アリシアは静かに呟いた。
その瞳には、もう涙の気配などなかった。あるのはただ、まだ形にならない、けれど確かな決意の光だけだった。




