第30話
王都へ発つ日が、近づいていた。
アリシアは、留守の間の領の運営を、信頼する者たちに託すことにした。日々の差配はオットーに、産業の管理はフェリクスに、そして治安の維持は、残る騎士たちに。
万全の体制を整え、彼女は出立の準備を進めた。
*
出発の前夜。
アリシアは、一人、書斎で、これまでの帳面を読み返していた。
追放された日から、今日までの記録。荒れ地に立ち尽くした日。井戸を掘った日。染料を見出した日。仲間と出会い、困難を越えてきた、一日一日。
そのすべてが、愛おしかった。
「ずいぶん、遠くまで来たわ……」
ふと、扉が叩かれた。ディートハルトだった。
「入るぞ」
彼は、いつになく改まった様子で、書斎に入ってきた。手には、小さな包みを持っている。
「団長? どうなさったのですか、こんな時間に」
「……渡したいものが、あってな」
ディートハルトは、ぶっきらぼうに言うと、その包みを、アリシアに差し出した。
受け取って開けると、中から現れたのは、精巧な細工の施された、小さな短剣だった。護身用の、けれど、明らかに上等な品。鞘には、グレンツェ・ブルーの宝石が、慎ましく埋め込まれていた。彼が、どれほどの想いを込めてこれを選んだのか、その一点を見ただけで、痛いほど伝わってきた。
「これは……」
「王都は、危険な場所だ。何があるか、わからん。お守り代わりに、持っていけ」
「団長……」
「俺が、ずっと傍にいられればいいが、そうもいかん場面もあるだろう。だから、せめて、これを。あんたの身を、少しでも守れるものを」
不器用な、けれど、深い気遣いのこもった贈り物だった。
アリシアは、その短剣を、そっと胸に抱いた。じんと、温かいものが込み上げる。
「……ありがとうございます。大切に、いたします」
二人の視線が、絡み合った。
言葉にならない想いが、その間に、確かに満ちている。出会った頃の冷たさは、もう、どこにもなかった。
「アリシア殿」
ディートハルトが、静かに口を開いた。
「必ず、無事に戻ってきてくれ。あんたの帰る場所は、ここだ。俺たちが……俺が、待っている」
その言葉は、ほとんど、告白に近かった。
アリシアの頬が、ほのかに染まる。彼女は、まっすぐに彼を見つめ返し、こくりと頷いた。
「ええ。必ず、帰ってきます。この領に、あなたのもとへ」
短い、けれど、互いの想いを確かめ合うような、約束だった。
*
翌朝。
アリシアは、ディートハルトとハンナを伴い、王都へと旅立った。
今度の見送りは、追放されたあの日とは、まるで違っていた。村人たちが、総出で集まり、彼女の道中の無事を祈ってくれる。誰も見送らなかった、あの霧深い朝とは、何もかもが違っていた。
「領主様、お気をつけて!」
「ご無事のお帰りを、お待ちしております!」
温かな声に送られ、アリシアは、馬車に乗り込んだ。
胸には、ディートハルトから贈られた短剣。そして、領のみんなの想い。それらが、彼女に、何よりの力を与えていた。たった一人で、誰にも見送られず旅立った一年前。あのときの孤独を思えば、今のこの温もりは、奇跡のようだった。
窓の外、遠ざかっていくグレンツェの大地を、アリシアは、しっかりと目に焼き付けた。黄金色に実った畑も、活気づいた村も、すべて、守るべきもの。
(必ず、守ってみせる。この場所を、この人たちを)
決意を新たに、彼女は前を向いた。
追放された令嬢の、最大の戦いの舞台、王都へ。逆転の物語は、いよいよ核心へと、突き進んでいく。




