第16話
第二部の幕は、一通の招待状から上がった。
春も深まった頃、グレンツェの染料は、思いがけぬ評判を呼んでいた。ハンナの販路を通じて広がったその色は、王都の目利きたちの間で、密かに話題となっていたのだ。
その評判が、ある人物の耳に届いた。
「隣領の、フェルダー伯爵から……?」
アリシアは、届いた書状を前に、首をかしげた。
フェルダー伯爵領は、グレンツェの南に接する、豊かな農業地帯だった。歴史も古く、爵位も高い。そんな大領の主が、無爵の女領主に、わざわざ書状を寄越すとは。
「交易の相談、とありますわ」
傍らのハンナが、書状を覗き込んで眉を寄せた。
「ふん。豊かな伯爵様が、うちみたいな辺境に何の用だろうね。きな臭いったらありゃしない」
*
数日後、フェルダー伯爵の使者が、領主館を訪れた。
仕立ての良い装いの、慇懃な物腰の男だった。彼は丁重に頭を下げ、主からの言葉を伝えた。
「我が主は、グレンツェの染料に、いたく感心しておられます。ぜひ、独占的に取り扱わせていただきたい、と」
「独占……ですか」
「左様。フェルダー領の販路を通じて、王都中に売りさばきましょう。グレンツェには、その分の対価をお支払いいたします。悪い話ではございますまい?」
一見、それは魅力的な申し出だった。
大領の販路に乗れば、染料はより広く流通する。安定した収入も見込めるだろう。けれど──アリシアは、すぐには頷かなかった。
「ありがたいお話です。けれど、独占となりますと、価格の決定権は、すべてフェルダー領が握ることになりますね?」
使者の笑みが、わずかに強張った。
「それは……商いの常として」
「つまり、買い取り価格を、そちらの都合で決められる。安く買い叩かれても、こちらには断る術がない。違いますか?」
アリシアの指摘は、的確に核心を突いていた。
独占契約とは、聞こえはいいが、その実、グレンツェの自立を奪い、フェルダー領に従属させる枷になりかねない。豊かな大領が、新興の特産を、自らの支配下に取り込もうという魂胆が、透けて見えた。一度握られてしまえば、価格も、量も、すべて相手の胸三寸。せっかく芽吹いた産業が、他領の都合で枯らされることすらありうる。
「……お話は、承りました。少し、考えさせてください」
アリシアは、即答を避けた。
使者は、やや不満げな表情を残しつつ、引き上げていった。
*
使者が去った後、ハンナが感心したように口笛を吹いた。
「さすがだね、領主様。あたしも、あの独占話には裏があると睨んでた。乗っかってたら、いいように使われてたよ」
「ええ。けれど、無下に断れば、角が立ちます。フェルダー伯爵は、格上の大領主。敵に回せば、厄介なことになるでしょう」
アリシアは、思案に沈んだ。
従属するのも、敵対するのも、得策ではない。ならば──対等な取引相手として、認めさせるしかない。豊かさでも、爵位でも、向こうが上なのは動かない。けれど、グレンツェにしか作れぬ色がある限り、こちらにも切れる札はある。
(試されているのだわ。わたくしが、ただの世間知らずの令嬢か、それとも交渉に値する相手か)
胸の内で、闘志が静かに燃え上がる。
新たな局面が、訪れていた。畑を耕すだけでは済まされない、領主としての本当の駆け引きが、今、始まろうとしていた。土を相手にするのとは違う。狡知に長けた大領主を相手に、知恵と度胸で渡り合わねばならない。
「受けて立ちましょう。対等な条件を、こちらから示すのです」
アリシアの瞳には、もう迷いはなかった。




