第14話
冬が、来た。
北の辺境の冬は、想像を絶する厳しさだった。山脈から吹き下ろす風は刃のように冷たく、雪は幾日も降り止まない。大地は凍てつき、すべての営みが、白の中に閉ざされていく。
*
その日、悲報が領主館に届いた。
ハンナが、息を切らして駆け込んできたのだ。
「領主様、大変だ! 染料の在庫が……!」
貯蔵庫に運ばれたアリシアが目にしたのは、無残な光景だった。
大切に蓄えてきた染料の一部が、寒さで凍て、変質していた。せっかくの鮮やかな青紫が、くすみ、価値を失っている。冬の寒気が、貯蔵の不備をついたのだ。
「そんな……」
アリシアは、変質した染料を手に取り、立ち尽くした。
苦労して作り上げた品だった。村人と共に、何度も失敗を重ね、ようやく軌道に乗せた産業。その成果の一部が、一夜にして失われてしまった。
損失は、小さくなかった。次の取引に回すはずだった分が、丸ごと駄目になったのだ。これは、確かな痛手だった。
「あたしの管理が甘かった。すまない、領主様……」
ハンナが、珍しく肩を落とす。
「いいえ。貯蔵の方法まで考えが及ばなかった、わたくしの落ち度です」
アリシアは、静かにかぶりを振った。誰かを責めても、失われたものは戻らない。
*
追い打ちをかけるように、村にも被害が広がった。
厳しい寒さで、いくつかの家屋が傷み、わずかに芽吹き始めていた冬越しの作物も、霜にやられた。せっかく上向きかけた領の暮らしが、自然の猛威の前に、再び翳りを見せ始める。
村人たちの間に、不安が広がっていった。
「やはり、この地は呪われているんじゃ……」
「冬を越せるのか、おらたち……」
誰かの口から漏れた弱音が、伝染するように広がっていく。ようやく芽生えた希望が、揺らいでいく。長く諦めに慣れた心は、ひとたび試練に遭うと、たやすく後ろ向きになってしまう。
その空気を、アリシアは敏感に感じ取っていた。
*
その夜、彼女は一人、暗い貯蔵庫にいた。
変質した染料を前に、唇を噛む。順調に進んでいると、どこかで油断していた。自然は、そんな慢心を、容赦なく打ち砕いてくる。
(甘かったわ。立て直しは、こんなにも脆い)
悔しさが、じわりと胸に滲んだ。
けれど──アリシアは、そこで膝を折らなかった。
冷たい床に座り込み、彼女は帳面を開いた。震える指で、今回の失敗を、一つ残らず書き留めていく。寒さで染料が変質した原因。家屋が傷んだ箇所。霜にやられた作物の種類。どんな小さなことも、見逃さずに。
(失敗は、財産だわ。原因がわかれば、次は防げる)
貯蔵庫の温度をどう保つか。家屋の補強をどう進めるか。寒さに強い作物は何か。失敗の一つ一つが、次への教訓となって、彼女の中に刻まれていく。痛手を負った今だからこそ、見えてくることがある。順調なときには、決して気づけなかった弱点が。
いつしか、悔しさは、静かな闘志へと変わっていた。
「負けないわ。冬は、いつか必ず明ける」
凍えるような闇の中で、アリシアは、自らに言い聞かせるように呟いた。
その瞳には、試練に打ちのめされた者の絶望ではなく、それを糧に変えようとする者の、揺るがぬ光が宿っていた。
明日になれば、また村人たちと向き合わねばならない。揺らいだ彼らの心を、もう一度繋ぎとめなければ。けれど、それでいい。困難は、一人で抱えるものではない。共に越えていくものだ。
冬は、まだ続く。けれど、この厳しい季節こそが、彼女と領を、本当の意味で強くしていくのだ。




