第13話
その頃、王都のモルゲンシュテルン家では。
レオンハルトが、夜会から戻ったばかりの上機嫌で、葡萄酒の杯を傾けていた。傍らには、新たな婚約者となったマリーベルが、甘えるように寄り添っている。
「ねえ、レオン様。聞きましたわよ。あの方、辺境へ追いやられたんですって?」
「ああ、あの退屈な女か」
レオンハルトは、せせら笑った。
「遺言とやらで、北の果ての荒れ地を押しつけられたそうだ。爵位もない、ただの女領主だとさ。哀れなものだな」
「あら。ふふ、家柄しか取り柄がない方ですもの。荒れ地でせいぜい、土でもいじっていればよろしいのですわ」
マリーベルが、扇の陰でくすくすと笑う。二人は、グレンツェの名を肴に、しばし嘲笑を交わした。
彼らの頭の中で、アリシアはすでに「終わった女」だった。二度と社交界に戻ることもなく、辺境で朽ちていく敗者。そう信じて、疑いもしなかった。自分たちが嗤っている相手が、今まさに足元から世界を覆そうとしていることなど、想像すらしていない。
「それより、レオン様。今度の舞踏会のドレス、新しく仕立てたいのですけれど」
「ああ、好きにするといい。金ならいくらでもある」
放蕩な日々は、続いていた。レオンハルトは家の財を惜しみなく使い、マリーベルはそれを当然のように享受する。彼らの世界に、足元を見つめ直す視点など、どこにもなかった。やがて訪れる報いの足音にも、二人は気づかぬままだった。
*
一方、その豪奢な屋敷の奥。
書斎の暗がりで、一人の男が、静かに書状を読んでいた。
ファルケンラート伯爵──あの夜会で、去りゆくアリシアの背を冷ややかに見つめていた、宰相格の重臣である。
彼の手にあったのは、グレンツェ領からの報告書だった。新領主の動向を探らせた、密偵からのものだ。
「染料、用水路、人心の掌握……ほう」
伯爵は、報告の一つ一つに目を通し、低く呟いた。
その口元には、笑みが浮かんでいた。けれど、それは温かなものではない。獲物の意外な動きを面白がる、捕食者のような笑みだった。
「あの娘、ただ朽ちるかと思えば……存外、面白いことをする」
ファルケンラート伯爵には、密かな目論見があった。
長年、彼はグレンツェ領を、ある目的のために利用してきた。中間搾取によって領を痩せさせ、人を減らし、誰も注目しない死んだ土地として、管理下に置いておく。それは、彼の壮大な計画の、重要な布石だった。なぜその土地でなければならないのか──その理由を知る者は、王国広しといえど、ごくわずかしかいない。
その土地に、予想外の領主が現れた。荒廃を食い止め、あろうことか、領を蘇らせようとしている。
「邪魔をしてくれるな、と言いたいところだが」
伯爵は、書状をろうそくの火にかざした。じり、と紙の端が焦げ、やがて炎が文字を舐めていく。
「さて。あの娘が、どこまでやれるか。少し、泳がせてみるのも一興か」
燃え落ちる書状を見つめる、その双眸の奥。
そこには、レオンハルトのような短慮な侮りとは、まるで異質の光が宿っていた。冷徹に計算し、盤上の駒を眺める、真の黒幕の眼差し。あの夜会で泣かなかった娘を、彼はあのときから、ただの令嬢とは見ていなかった。
遠い辺境で芽吹いた希望の火に、まだ誰も知らぬ巨大な影が、静かに重なろうとしていた。
アリシアの戦いは、彼女が思うよりもずっと、根深いものへと繋がっている。痩せた土地も、消えた税も、すべては一本の糸で結ばれていた。その事実を、彼女自身は、まだ知らない。




