スマホのない異世界に転生して
のんびりとした時間が、ゆっくりと流れてた。
季節は夏らしかった。
みんなの言葉はわからないけど、服装が夏の装いだ。
ルノワールだっけ? あのかわいい絵を描く画家の世界みたい。白い日傘をさして、花咲く丘を、綺麗な身なりの女性たちがピクニックしてる。エスコートする男性たちもみんな美しい。
夏なのに涼しくて、肌をくすぐる風が気持ちいい。
あたしは母の膝の上でダァダァと赤ちゃん言葉を発しながら、珍しい世界に夢中だった。
この異世界にはスマホがない。
でも、禁断症状なんて起きるわけもなかった。
これほど初めて見るものだらけの、まるでヨーロッパのどこかの国の人間に転生したみたいな気分に、いやほんとうに転生しちゃったんだけど──産まれてきてよかったって思ってた。
母があたしを上からにっこりと見つめて、何か言った。
言葉はわからなかったけど、なんかその中に『リエ』という単語が聞き取れた。
もしかして、この世界でもあたしの名前はリエなの? 別人になりたかったのに……
背の高い草がサラサラと音を立てて揺れる。
丘の上でのピクニックは平和で、楽しかった。
父も優しそうに笑って、飲み物を手に、あたしと母を見つめてくれる。優しそうだけど、少し失言の多そうな、チョイだめパパ。ちょっとだけ、ヒロアキに似てる。
ヒロアキはどうなったんだろう。
もしかしてどこかの異世界に転生してるのかな。
いや、異世界転生って、人生をやり直したいひとがするものだと聞く。文明レベルの低い世界に産まれ直して、現代のスキルで無双するのがテンプレだ。
ヒロアキは人生に満足してるように見えた、少なくともあたしの目からは──
だからきっと、そのまま生まれ変わることなく、死んでしまったんだろう。どうか天国へ行けてますように。
齋藤ちゃんは、たぶんあたしたちがトラックに轢かれるのを直視して……トラウマになっちゃったかな。悪いことしたな。
黒猫ちゃんは? あたしとヒロアキと一緒に、死んじゃった? 助けた意味、なかったかな……
っていうか、あたしが道路に飛び出したことで、特に何も変わりはせず、それどころかみんなに迷惑をかけちゃったんだな。
ヒロアキは死んで、黒猫ちゃんも結局助けた意味なく死んで、齋藤ちゃんは友達二人がぐちゃぐちゃのミンチになるところを目撃して、トラウマを負って──
あたし一人だけ、あのクソ蒸し暑い現代日本から脱出して、申し訳ないことに、こんな気持ちのいい丘の上で、優しい両親とピクニックしてる。
スマホ中毒だったあたしだから、たぶんこの先この異世界にスマートフォンをもたらして、活躍するんだろう。
……いや、スマホはもう、いいや。
スマホがなければ、きっと元の世界のあたしも、もっと色んなことを頑張ってた。
友達作りにも必死になって、容姿のよさでたぶん、クラスの人気者になってた。
SNSのコメント欄でもよく言ってもらってたもん。
『リエちゃんめっちゃかわいいのに、なんで人気出ないんだ』
『世界がまだ彼女に気づいてない!』
『俺たちが拡散するんだ!』
……いけない、いけない。
もういいやとか思いながら、やっぱり頭がスマホのことを考えてしまう。
ヒロアキと齋藤ちゃんにはあんなことを言ったけど、ほんとうのあたしはあの、暗いひとりの部屋から見た目がかわいいだけの『ニセモノのあたし』を世界に向けて発信してた、何もできないあたしなんだ。
きっと神さまは、あたしに自分を変えるチャンスを与えるために、この異世界に召喚してくれたんだ。
クスリに依存してた自分を洗い清めるように、一日じゅうスマホの画面ばかり見つめてた自分を脱ぎ捨てて、この異世界であたしは陽キャになろう。
ヒロアキと黒猫ちゃんには申し訳ないけど──
あたしはこの異世界で、新しいひとになろう。
よだれかけをつけられたあたしが、母の手からミルク味のパン粥をムニュムニュ食べながらそんなことを考えていると、急にまわりが騒がしくなった。
男のひとたちが女性を守るように壁を作って、何やら声をあげている。腰につけていた剣を一斉に抜いた。
丘の斜面を豚人間みたいなのが三体、棍棒みたいなものを持って上がってくるのが見えた。
何、あれ……
もしかして魔物ってやつ?
そうか! 初めて見たけど、異世界といえばああいうのがいるところだった!
ガクガク震えるあたしと母に何かを言い置いて、父がゆっくりと立ち上がった。
父は剣を差してない。でもなんだかその背中が頼もしい。
父が何かを唱え、手を前へ向かって差し出すと、そこから電撃が放たれた。ロック・オンするように豚の魔物にむかって直撃する。
魔法だ……
知らなかった。
これって、まるで、スマホの画面の中に見てた世界じゃん!
恐怖に震えながらも、あたしの胸の奥で、確かなワクワクが跳ねていた。




