第九章 魔王の影
王都が落ちたという報を彼は二日遅れで地図屋の店先で聞いた。地図の上で北の塗りつぶされていない地域が急にひとつ増えた。
その朝ヴェルンの町に黒い旗を立てた早馬が二騎駆け込んだ。
使者は領主館の前で馬を止めると布で覆われた書状を渡しそのまま西へ駆け抜けて行った。一刻ののち領主の執事が町の鐘を三度鳴らした。
王都ではない別の名前の街が一つ魔王軍に陥落したという報せだった。
北の城塞都市アジル。
人口三万。城壁四重。長く魔王軍の侵攻を食い止めてきた要衝。それがわずか一夜で落とされた。
原因は不明。城門は内側から開いていたという報せだけが伝わっていた。
町の広場に集まった人々は互いに肩を寄せ合い低い声で囁いた。中には涙を浮かべた者もいたが悲鳴を上げる者はいなかった。陥落した都市はこれで二十三を数える。哀しみにも慣れの始まりがある。透は人々のあいだに紛れて鐘楼の影で立ち止まり広場の中央にいる老婆の顔をしばらく見た。老婆は両手で口を覆い目だけを見開いていた。涙はもう乾いていた。あれは身内をすでに失った顔だ。船員は港の岸壁で同じ顔を何度も見た。事故の報を受けて出迎えに来た家族の顔である。
透は地図屋の店先にいた。
ヴェルンの地図屋は老いた男で片目を失っていた。残された片目は鋭く透の地図を一目で気に入っていた。透の手書きを丹念に複製紙に写して町の人々に売る。それが彼の生計だった。
老人はその日店の壁に貼った大陸全図を指で叩いた。
「またひとつ塗りつぶされていない地域が増えたな」
白い土地。
魔王軍に呑まれた地域はもう誰も歩けないため地図屋は色を塗らない。塗り残された白さは町の老人にとっての訃報のかたちだった。
透はその夜塔の屋上から北の空を眺めた。
北の地平線に奇妙な薄い赤が滲んでいた。
火事ではない。
オーロラでもない。
大気の屈折で本来見えるはずのない遠くの光を運んでくる現象がある。船員のあいだでは「擬光」と呼ぶ。光は嘘をつかないが空気は嘘をつく。視程の悪い夜に水平線の上に浮かぶ偽の灯火に船員はだまされかけることがある。だまされかけるたびに彼らは経験で気づく。本物の光は揺らがない。擬光は揺らぐ。今夜の北の薄い赤は揺らいでいた。
透は地図に重ねて確認した。
擬光の方角はアジルである。
ファルナが背後から低い声で言った。
「ねえ私の星のずれまだ気にしてる」
透は黙ったまま頷いた。
彼女はもう半年も前から自分の観測する基準星「シェル」の位置が毎晩本来あるべき場所からほんの少しずつ東へずれていることを記録していた。観測誤差ならばらつくはずだった。だが彼女のノートではずれは一方向に一定の速度で続いていた。
誰も読まない報告書のなかでずっと星は東へ動いていた。
透は航海日誌を開き新しい頁にこう書き入れた。
「シェル、現在位置の累積ずれ、計算予定」
その夜ヴェルンの町は誰よりも早く世界が静かに歪み始めていることを記録した町になった。ただしそれを知っていたのは二人だけだった。
翌朝広場には王都の貴族院から派遣された使者が立ち寄った。
使者は長い旅で疲れていたらしく顔色は黄色く頬がこけていた。彼は領主館の前で短い口上を読み上げた。アジル陥落の責任は前線指揮官にあり王都の落ち度ではない。次の砦の補強のために北辺三郡から人と物資を徴発する。徴発の細目は使者が持参した書状に記されている。読み上げの声は弱く小さく町の広場の半分ほどしか届かなかった。だが届いた範囲の人々は皆同じ顔をした。怒っているのでも悲しんでいるのでもない顔。慣れた顔だった。これで二十三都市が落ちた。徴発の通達も二十三回目だった。回数を重ねるほど通達の言葉は短くなっていった。最初の通達のときには長い説明と慰めの言葉が添えられていたという。今はもうない。
透は広場の隅で使者の口上を聞きながらファルナの隣に立っていた。
ファルナは何も言わずただ自分の懐から小さな手帳を取り出し使者の言葉を一行ずつ書き写した。書き写し終えた彼女の手帳のその頁の余白には誰にも見えないほど小さな字で「ロワール、未陥落」と書き加えられていた。透はその余白の三文字を横目で読んだ。彼女は使者の話を聞きながら同時に別の地図を頭の中で動かしていた。陥落していない都市の名前。彼女が今も生きていると信じる人々の住む場所の名前。書く者の頭の中ではいつでも複数の地図が同時に動いている。
「あなたの世界では」と帰り道でファルナは低い声で訊いた。「都市が一つ落ちるという話を聞いたら人々は何をする」
「祈る」と透は答えた。「次は自分の街でないようにと祈る」
「祈っても聞かれない」
「聞かれない。でも祈る」
「私の世界でも同じ」
ファルナはそれだけ言って黙った。
二人は塔への登り坂を黙って歩いた。坂の途中でヴェルンの町の犬が一匹彼らの足元を横切った。痩せた犬で耳の片方が欠けていた。犬は二人を見上げ何かを期待するでもなく通り過ぎていった。透はその犬の歩き方を眺めた。歩き方は四本足の動物にしては妙に整っていた。前足と後ろ足の運びの拍子が一定で軸がぶれない。歩き慣れた犬だ。歩き慣れていない犬はもっとふらつく。この町で生まれて毎日同じ坂を上り下りしてきた犬だけが持つ歩き方だった。透はその拍子を彼の頭の中の引き出しに一つしまった。あとで何かの役に立つかもしれない情報は全部しまっておく。船員の頭はそうしてできている。




