第十章 歪み
星は嘘をつかない。だが星の位置を写し取る人間の手は嘘をつく。彼は半年分のファルナの記録を一枚の紙にまとめそして気づいた。
透は塔の書斎の机にファルナの観測ノート二十四冊を並べた。
二年分の記録だった。
ノートの背表紙にはすべて彼女の几帳面な文字で月と年が記されていた。最初の十冊は字に勢いがあり線が太い。中盤の八冊は字が細く整っている。終盤の六冊はまた線が太くなりところどころ字が震えていた。透はその震えを彼女に気づかれないように観察した。終盤の震えはおそらく星のずれに気づき始めた時期と重なる。観測者は自分の値が外れていく恐怖を一年間誰にも相談できずに抱え込んでいた。それでも記録を取りつづけた。やめなかった。
透は毎晩ファルナの隣で同じ位置の星を測り直した。同じ時刻同じ場所同じ星。彼女の値と彼の値を一日ずつ並べていく。
最初の十日間で二人の数値はほぼ一致した。
次の二十日で二人の数値はわずかに食い違い始めた。ファルナの値が正しかった。透の値は自分でも気づかないうちに彼女のずれを後追いするようにほんの少しだけ東へずれていた。観測者の心理的なバイアスだ。先に習った数値に引きずられる。
透は自分の値を捨てファルナの値だけで半年分の累積ずれを計算した。
基準星シェルの本来あるべき位置から東方向への累積ずれは現在約一・三度。
角度としては小さい。
だがそれを地表に投影すれば距離にして北方の地で約十五里、南方の地で約二十里。地図の上で確実に見える歪みだった。
しかも星のずれは加速していた。
最初の半年で〇・四度。
次の半年で〇・五度。
直近の半年で〇・六度。
透は鉛筆を置き塔の窓を開けた。
風が部屋に流れ込んだ。蝋燭の炎が震えた。ファルナが背後から机を覗き込んでいた。
「ねえこれ何の数字」
透は答えるのに少し時間がかかった。
「世界がずれている」
「世界が」
「星じゃない。星は嘘をつかない。空気も海も時計も嘘をつくけど星は嘘をつかない」
彼は窓の外の北の空の薄い赤の擬光を指さした。
「星が本来あるべき場所からずれているように見えるのは星を見ている世界のほうがねじれているからだ」
ファルナの肩がわずかに震えた。
「あなたは……どこから来たの」
透は答えた。
「海から」
「海って」
「ここよりももっと広くてもっと嘘をつかない場所」
「うそ」
「うそじゃない」
「私の世界には海がないの。古い書物に名前だけは残ってる。けど実物を見た人はもう誰もいない。大陸の南は山脈で塞がれて誰も越えられない」
透は驚いた。
驚きを顔に出さないように努めた。船員は意外な情報を顔に出さない訓練を受けている。だがそのとき彼の喉の奥で小さな砂粒が引っかかった。彼の落ちたこの世界は元の世界と同じではない。地球と同じ惑星ではないかもしれない。星の名前は違う。海はない。それでも自転と公転と歳差運動はある。星は動く。空は青い。風は西から東へ吹く季節がある。だから測量はできる。クロスベアリングは効く。それでよかった。
ファルナはしばらく黙ってからそれから静かに言った。
「ずれの中心はどこ」
透は地図に三本の鉛筆線を引いた。
ヴェルンからのずれの方向。北のアジルからのずれの方向。南の港町ロワールからのずれの方向。三本の延長線が地図の上で一点に交わった。
その一点は魔王軍が最初に侵攻を開始した古城のちょうど真上に位置していた。
ファルナの呼吸が止まった。
彼女は自分の手で自分の口を覆いそれから両手の指を組んで机の角を握った。指の関節が白くなった。透は彼女の手をじっと見た。彼の鉛筆書きの線が彼女の手のひらにもう一本の線を引いてしまっていることを知っていた。
「ねえ」とファルナは言った。「あなたはこの中心点に行くつもりなの」
「行くつもりだ」
「私も行く」
「君は行かないほうがいい」
「行く」
彼女の声に揺らぎはなかった。
透はその声を聞いて自分の鉛筆を握り直した。
二人は同じ机に向かいその夜長い時間黙って計算を続けた。一里あたりの誤差。観測値の信頼区間。風の影響。気温による光の屈折。ありとあらゆる補正項目を彼らは紙の上に書き出した。書きながら透はもうひとつのことに気づいていた。
ずれの中心点は世界の歪みの源であると同時にこの世界と元の世界とを繋ぐ綱でもある。
ファルナが知らない事実をひとつだけ彼は知っていた。
郡司岳人もまた向こう側に落ちている。
灰色のローブの男がもしも郡司岳人ならば歪みの中心点は郡司を含む元の世界の人間がこの世界に錨を降ろしている場所のはずだ。
錨地。
船員にとって錨地は港から港への移動の途中で休む場所だ。永住の場所ではない。錨は上げるためにある。
透は鉛筆の先で地図の中央の点を軽く叩いた。
点は黒く小さく揺るぎなかった。
その夜ファルナは机に肘をついたまま薄く眠った。透は彼女に薄手の毛布を掛けてから自分も机の反対側で目を閉じた。眠るまえに彼の頭のなかにひとつだけ確かなことが浮かんだ。錨は上げるためにある。だがそれは独りで上げてはいけない。錨を上げるには必ず二人以上の人間がいる。船員のあいだではそう決まっていた。
翌朝彼が目を覚ましたとき机の上にはファルナの新しい一頁が広げられていた。
頁の上にはまだ濡れたままのインクの線が走っていた。彼女は夜半に起きて新しい計算を始めていた。書きかけの計算は星の累積ずれの加速度を時間の二次関数で近似したものだった。彼女は近似式を二通り書きそれぞれの誤差の範囲を脇に小さく注記していた。一つは線形の単純な近似で誤差が大きく一つは二次の項を含むやや複雑な近似で誤差が小さい。彼女は二つを並べて比較したうえで二次の項を含む方を採用することに決めたらしく単純なほうの近似式の脇には鉛筆で短く「却下」と書かれていた。
透はその「却下」の二文字を見て口の端でだけ薄く笑った。
観測者の決断はそういうふうに紙の上で行われる。声を荒げず会議も開かず一人の机の上で。船員時代に船長の机の上で見た決断とまったく同じ書式だった。船長は重要な判断を口で言わずに紙に書く。書いて部下に渡す。部下は紙を受け取り判断を実行する。会議で結論を出すと責任の所在が曖昧になる。紙の上の決断は誰が下したかが明らかになる。明らかな決断は揺らがない。揺らがない決断は世界を動かす。ファルナはこの世界の塔の屋上で一人船長の作法を身につけていた。透はその朝彼女のことを少しだけ船長と呼びたくなった。
二次の近似式から逆算したずれの加速度は予想より大きかった。
彼女の式によれば歪みの中心点が完全に閉じる「点」はあと半年で来る。半年が過ぎれば世界は自力では戻れない歪みに突入する。それまでに錨地を物理的に潰せなければ世界はもう戻らない。透は紙の余白に小さく「期限、半年」と書き込んだ。書きながらその余白の隣にもう一つ別の数字が書かれているのに気づいた。彼女の筆跡だった。
「観測継続日数、八百二十二日」
ファルナがこの塔に派遣されてから記録を取り続けた日数だった。彼女は毎朝目覚めたときにその数字を一つ増やして書き直す。今日は八百二十三日になるはずだった。透はその数字の続きの空欄を見て鉛筆を握り直した。空欄の隣に小さく自分の手で書き入れた。「観測者二名、累計日数加算開始」。彼女が目覚めたときにその一行を読むだろうと思った。彼女はそれを読んでおそらく何も言わないだろう。だが鉛筆の先で一度だけ「観測者二名」の文字をなぞるだろう。そう信じることができた。




