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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第十一章 中間点――偽りの勝利

その夜彼は初めて剣を持たないまま街を守った。


 辺境伯グレオン・モルドゥンは白いものが混じった髭を蓄えた老貴族だった。


 歳は六十を超えている。背は高くないが肩幅が広く若い頃に長く戦場に立った男の身体つきをしている。ヴェルンを含む北辺の三郡を統括する伯爵位の上席すなわち侯爵格の辺境伯であり王都の貴族院よりも自分の郡の現場主義を信じる男だった。辺境伯という称号はもともと国境の防衛を担う独立軍権を持つ貴族の意味であり中央の王権に従属しすぎないことが伝統だった。


 彼の領地がようやく動いた。


 透の地図とずれの中心点の計算結果をヴェルンの代官が辺境伯の城へ早馬で届けた。三日後城から短い招集の書状が塔に届いた。


 書状にはこう書かれていた。


 「測影師よ、辺境都市カラトスの防衛会議に出席せよ」


 測影師。


 ファルナがその言葉を声に出して二度繰り返した。


 「光を測る者」と彼女は呟いた。


 透はその称号をまだ受け取ったわけではなかった。だがそれから八日の後辺境都市カラトスの城壁会議室で彼はその称号を辺境伯の手から正式に授かることになる。


 カラトスは北辺最大の要塞都市だった。


 四重の城壁。二十門の砲塔。六百の常駐騎士団。町の規模はヴェルンの十倍。屋根は灰色のスレート。川は街の中央を真っすぐに貫いている。荷を運ぶ平底船が幾艘も上下していた。会議室は城の三階にあった。長机の上座に辺境伯。両脇に副官、参謀、街長、軍師、それから魔導師団長。透は末席に座らされた。彼の前にだけなぜかガラスのコップに水が置かれていた。


 辺境伯は最初に透のほうを見た。


 「測影師よ、お前の図を、まずは机に広げよ」


 透は地図を広げた。


 彼の鉛筆線が長机のすべての視線に晒された。大陸の北半分。アジルからのずれ方向、ヴェルンからのずれ方向、ロワールからのずれ方向。三本の延長線が交わる点。その下に魔王軍の最初の侵攻地である古城ナクトルが描かれている。


 軍師の男が最初に口を開いた。


 「これは占星師の地図か」


 透は首を振った。


 「ただの測量です」


 「測量でこんなことが分かるのか」


 「目標を二つ取れば自分のいる場所が分かります。三つ取ればその精度を確かめられます。星を一つ取ればそれがどこに見えるかが分かります。星を半年間毎日同じ場所で見続ければ見ている世界そのものが動いているかどうかが分かります」


 会議室がしばらく沈黙した。


 辺境伯は組んだ指を一度だけ叩いた。


 「魔導師団長、星の動きで魔王軍の動きが読めるならそれは魔法ではないのか」


 魔導師団長の老婆は白髪を結い上げ皺の多い手で透の地図に触れた。彼女はゆっくり首を振った。


 「魔法ではありません。これは誰でも努力すればたどり着ける場所です」


 その言葉に透は少しだけ息が楽になった。


 魔法ではない。誰でもたどり着ける場所。それが彼の生きてきた六年間の現場で唯一の自慢だった。自慢を声に出して言ったことは一度もない。船員は自慢をしない。自慢は嫉妬を呼ぶ。だが他人がそれを「魔法ではない」と言い切ってくれたとき船員はようやく胸の奥のひとつの結び目を解く。


 辺境伯は会議の最後にこう告げた。


 「七日後魔王軍はカラトス南方の小村ベインに迫る。測影師よ、お前の図に従ってわしの軍は伏兵を置く。万が一お前の図が外れたらわしは老兵としての面目を失う」


 透は答えた。


 「外れません」


 声は震えていた。


 だが震えながらも外れないと言った。


 その夜彼は塔の自分の小部屋で生まれて初めて声に出して父の名を呼んだ。遠い港町で煙草を吸っていた父の名を。


 七日後の夜ベイン村の南の谷で辺境伯軍は完璧な伏兵を行った。


 魔狼に似た獣型の魔物が谷の風下からちょうど透の予想した時刻予想した位置に群れで現れた。彼らの「縄張りの中心点」を透は二日前から計算していた。風下のくぼ地。獣型の魔物はその点を目指して移動する習性を持つ。風下の風を全身で受けながら彼らは方角を選んでいた。


 弓兵が放った最初の矢が月明かりの中で夜空を白く切った。


 獣たちは戦うために来たのではなくただ自分の縄張りの中心点へ歩いていただけだった。彼らは戦況を理解する間もなくほぼ一方的に倒された。被害なし。騎士の負傷者三名。


 辺境伯はその夜戦勝の杯を透の前で揺らした。


 「測影師よ、お前の図はわしの槍よりわしの目よりよく見える」


 透は両手で杯を受け取った。


 辺境伯は続けた。


 「次はもっと大きな戦いになる。ナクトルの古城。歪みの中心」


 その瞬間透は気づいた。


 自分がいつの間にか地味な測量士ではなくなっていることに。


 会議室の隅辺境伯の側近の一人が透の航海日誌を持っていた。書記係として記録のために借りたと説明されていた。だが翌朝透は塔へ帰る前にその側近が廊下で自分のノートを別の薄い帳面に写しているのを偶然見かけた。


 彼は声をかけなかった。


 ただ深い夜道を塔へ向かって馬で帰る間胸の奥のどこかで小さな鈴が一度だけ鳴った。


 偽りの勝利の鈴が。


 その鈴の音は古い船員のあいだで知られた合図だった。


 航海中に何かが妙に上手くいきすぎたときに胸の奥で鳴る鈴の音。船員はその音を「先取りの鈴」と呼ぶ。先取りとは将来の不幸の前借りである。今日上手くいきすぎたぶんは明日の事故で返済される。それが海の収支だった。透の父はその鈴の音について晩酌の席で何度も語った。「先取りの鈴が鳴ったらその夜は二倍見張れ、東雲。鈴は嘘をつかない」。透は今夜その教えを思い出した。鈴は確かに鳴った。だから今夜彼は塔に戻ったあとも眠らずに二倍見張る。何を見張るのか具体的には分からないが見張ること自体に意味があった。見張る者は不意打ちを受けない。不意打ちを受けない船員は生き残る。


 塔に戻った夜彼は屋上の手すりに腰を下ろし朝までそこにいた。


 ファルナはその夜の透の様子を黙って観察していた。


 彼女は何も訊かなかった。ただ夜半に一度だけ書斎から温かい蜂蜜水のカップを持って屋上に上がってきて手すりの隣にそっと置いた。透はカップを両手で包み温度が指の関節まで通るのを待ってから一口だけ口に含んだ。蜂蜜の甘さは思いの外に薄く水の量のほうがずっと多かった。ファルナがケチで薄くしたのではない。蜂蜜は北辺の冬の貴重な保存食糧だった。彼女は自分の分まで節約して透の分の蜂蜜水を作った。彼はその一口で彼女の手元にあるだろう蜂蜜壺の残量を計算した。残量は少ない。あと一週間で底をつく。次の補充は商隊の到着まで来ない。彼は蜂蜜水のカップを大事に二口で飲み干した。残った薄い甘さを舌の奥でしばらく味わった。船員にとって貴重な物資を分けてもらった夜は仲間を裏切れない夜になる。彼の作戦は明日からますます慎重にならざるを得なかった。

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