第十二章 故郷の記憶
父は港の岸壁で煙草を吸いながら出港する息子の船を最後まで見送る人だった。一度も手を振らずにただ立っていた。
カラトスから戻った夜塔の屋上で透は珍しく長く喋った。
その日は満月の二日後月は欠け始めていた。風は弱く空気は冷たくなく塔の石の手すりに肘をつくと夜は思いのほか柔らかかった。手すりの石は昼間の太陽の熱を半分だけ残している。指を置くと体温との温度差がほんの少しだけ伝わってくる。
ファルナは隣で両膝を抱えるように座っていた。
「ねえあなたの世界の話もう少し聞かせて」
彼女は星を見ていた。
透も星を見ていた。
「港町で生まれた」と透は言った。「父も船乗りだった。普段は寡黙な人で家にいるあいだの会話はほとんど天気の話だった」
「天気」
「うん。明日は雨が来る。風が強い。波が高い。船乗りは家でも海の話しかしない」
ファルナは膝の上で頷いた。
「私の父のことは知らない。母も覚えてない。私を引き取った神殿は私が字を覚えるとすぐに天測の塔に送った。あなたみたいに何かを覚えていられる場所がない」
「覚えていられないことは悪いことじゃない」
「悪いとは思ってない。ただ変わってるとは思う」
透は笑った。
彼が初めて声を出して笑ったのをファルナは横顔で確かめた。
「父はね」と透は続けた。「僕の船が港を出るとき岸壁の同じ場所に立って煙草を吸っていた。一度も手を振らなかった。船乗りの作法だ。手を振ると戻ってこられなくなるって」
「変な作法」
「うん。でも僕もいま振り返らない作法のほうを続けてる」
夜風が二人のあいだを抜けた。
ファルナは膝を抱える腕の力を少しだけ強めた。
「あなたの父はいま生きてるの」
「いない」
「いつ」
「八年前。漁船との衝突事故で。父の船は外航の大型船で漁船の側が無灯火だった。父は機関長で機関室にいた。脱出は間に合わなかった」
「無灯火」
「夜に灯を点けずに航行することだ。狭い水道では絶対にやってはいけない。だが漁船はやる。安い油代を節約するため」
ファルナは何も言わなかった。
しばらく経ってから彼女は低く呟いた。
「あなたが手書きの記録に執着するのはお父さんの事故と関係ある」
透は意外な質問の角度に虚を突かれた。船員は意外な質問に顔を出さない訓練を受けている。だが今夜の彼はその訓練をうまく機能させられなかった。
「関係ある」と透は答えた。
「事故の調査のとき父の船の航海日誌が法廷に提出された。当直士官が規則どおりに船長を呼ばなかった証拠として。手書きの記録は嘘をつかなかった。それで漁船側の過失が七割で済んだ。手書きの記録がなければ父の船の全責任にされていた」
「だから記録を取る」
「記録は誰かを救う。たいていは書いた本人ではないけど」
ファルナは膝の上で組んでいた手のひらをそっと開いた。彼女の手のひらには鉛筆を握り続けた跡がある。掌の真ん中の浅いくぼみ。透は自分の手のひらにも同じくぼみがあることを知っていた。書く者の手のひら。
「ねえもし帰れたら」
「帰れたら」
「私のこと覚えていてくれる」
透はしばらく答えなかった。
星はそのあいだも彼女の長いまつ毛の上で揺れていた。
彼はようやく口を開いた。
「忘れたいと思っても忘れられないと思う」
ファルナはもう何も訊かなかった。
彼女は塔の手すりにそっと額を寄せ目を閉じた。透はそのまま夜が深くなるまで隣で星を見ていた。遠くの森で夜鳥が一度だけ鳴いた。
彼はその夜初めて帰りたいという気持ちとここに居たいという気持ちが自分の胸のなかで二本の方位線として交わっていることに気づいた。交点がまだ定まらないだけだった。彼にはそれが奇妙にも頼もしく感じられた。線が二本あればいつかは交点が見つかる。そう教わってきた。
ファルナがやがて目を閉じたまま小さな声で言った。
「ねえもし二本目の線が私だとしたら」
透は答えなかった。
「答えなくていい」と彼女は続けた。「私はあなたを困らせるために訊いたんじゃない。私は私の交点が見つかればそれで十分だから」
「君の交点は」
「分からない。でも探すのをやめないから心配しないで」
透は彼女のその言葉を聞いて自分の胸の奥のもう一本の線がほんの少しだけずれたのを感じた。クロスベアリングでは三本目を取って初めて精度が確かめられる。彼にはいまその三本目が必要だった。三本目が定まらないかぎり彼の交点もまた揺らいだままになる。船員はそれを長く知っていた。揺らいだ交点のまま航海を続ける士官は遅かれ早かれ座礁する。
その夜彼はファルナの肩に薄手の毛布を掛けて塔の階下へ降りた。階段の途中で振り返り屋上の手すりに肘をついた彼女の小さな背中を見た。星明かりの下で彼女の藍色の長衣の縁が銀色に光っていた。
手は振らなかった。
彼女もまた振り返らなかった。
港町の作法はここでも有効だった。
階下の自室で透は机に向かって父の話を続けて書いた。書きながら父の最後の航海のことを思い出した。父が死んだ夜の天候は今夜のヴェルンとよく似ていた。月は欠け始めで風は弱く空気は冷たくなかった。父の船は東シナ海の狭水道を北上していた。漁船との衝突は午前三時二十一分。父はそのとき機関制御室で当直の機関員と二人だけだった。衝突の衝撃で機関制御室の隔壁の継ぎ目から海水が噴き出した。当時の調査報告書には父の最後の動作までが分単位で記録されていた。父は若い機関員を先に脱出させた。次に機関の緊急停止スイッチを押した。最後に機関日誌に「○三時二三分、本船衝突、機関停止」と書いた。書き終えた時点で水位は彼の腰までだった。彼はそこで筆を置いた。
筆を置いた直後に隔壁がさらに大きく破れた。
父は水中に消えた。
遺体は二週間後に九州沖で発見された。胸ポケットには小さな鉛筆が一本入ったままだった。鉛筆の芯は途中で折れていた。最後の一行を書く途中で折れたのだろう。透はその折れた鉛筆を今でも母の家の仏壇に置いている。
書く者は書く途中で死ぬ。
書く者の作法だった。
透は鉛筆を握り直し今夜のヌーンレポートの最後にこう書き加えた。「父の鉛筆、現在所在、本邦母宅仏壇。書記、息子。観測継続中」。書きながら彼の頬を一筋だけ何かが伝った。それが何かを彼は確かめなかった。確かめないでいるほうがいいときがある。船員はそれを知っている。確かめないでいるあいだだけ守れるものがあった。




