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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第十三章 忍び寄る悪者

魔王軍の幕舎から流れてきた風に煙草の匂いが混じっていた。透は十年ぶりにその銘柄を識別した。


 辺境伯軍はカラトスの勝利のあと慎重に北進した。


 四週で四つの小村を奪還し三つの渓谷の哨戒線を再構築した。透の地図は軍の参謀本部で写しが二十枚刷られ各前線部隊に配られた。透の鉛筆書きの罫線が軍の作戦の上に重なっていた。彼の手書きの線が他人の命のかかった作戦を支えている。その感覚は新人の二等航海士のときにヌーンレポートが本社の経営判断資料に組み込まれていると初めて知ったときの感覚に似ていた。地味な記録は地味なまま誰かに使われる。使う側は書いた側の顔をたいてい知らない。それでよかった。


 ある朝ヴェルンから動員された斥候の一人が北の渓谷の崖の上から魔王軍の前線陣を見渡せる場所を見つけた。報告は早馬で塔に届きファルナと透は辺境伯の命を受けて自ら偵察に同行することになった。


 現地まで馬で二日。


 崖の上低い藪のなかに身を伏せて透は望遠の道具を覗いた。筒は青銅製内側に二枚の磨いた水晶が嵌めてある。船員時代の双眼鏡には到底及ばないがそれでも遠くを大きく見せる。彼は谷を挟んだ向こうの斜面に灰色の幕舎の群れを認めた。


 魔王軍の前線陣。


 幕舎の数は約四十。中央の大きな黒い幕舎の前に銀の意匠の旗が一本立っていた。


 風が吹いた。


 北西からゆるく。


 その風は向かいの斜面の幕舎を撫でてからこちらの崖まで届いた。風には湿った草の匂いと火薬の煙とそれから微かに別のものが混じっていた。


 透は鼻を動かした。


 動かしてそれから止まった。


 ファルナが彼の肩を見て訝しんだ。


 「どうしたの」


 透は答えなかった。


 代わりにもう一度ゆっくり深く息を吸った。


 湿った草。火薬。煙草。


 その煙草の銘柄を彼は知っていた。日本国内では一握りの愛好家しか吸わないフィルター無しの葉のきつい銘柄。元の世界で海務監督・郡司岳人が本社の自席でこっそりひと箱だけ机の引き出しに隠して吸っていたあの銘柄だった。郡司は喫煙所では別の銘柄を吸う。引き出しの中の銘柄は彼が新人の頃に船で覚えた古い銘柄でいまでは生産が縮小して特定の小売店でしか買えない。透が新人の歓送迎会で先輩から聞いた話のひとつだった。「あの人が引き出しの一箱を切り替えたときは要注意だ。気分が荒れているサインだ」と先輩は笑っていた。


 透は望遠の筒をもう一度ゆっくりと中央の黒い幕舎へ向けた。


 黒い幕舎の入口の布が風で少しだけ持ち上がった。


 その隙間から男の横顔が一瞬だけ覗いた。


 灰色のローブ黒い襟頭には先の尖った冠。だがその下の顎の輪郭頬の影眉の角度すべて覚えがあった。


 郡司岳人。


 間違いなく彼だった。


 透の喉の奥がひりついた。あの嵐の夜自分が呑まれたのと同じ光柱に彼もまた呑まれていた。本社か別の船から別の角度で。そしてこちらの世界で別の場所に落ちた。いやもしかしたら彼のほうが先に。


 透は望遠の筒を下ろした。


 手のひらに汗が滲んでいた。


 ファルナが低い声で訊いた。


 「あの男知ってる人」


 「知っている」


 「同じ世界から来たの」


 「同じ会社の上の人だ」


 ファルナは少しだけ黙ってからこう言った。


 「会社ってどういうもの」


 「人がたくさん集まってお金を稼ぐ場所」


 「そこでその人はあなたに優しくなかった」


 「優しくなかった」


 「だからここでも優しくないと思う」


 透は薄く笑った。ファルナの言葉は彼が長い時間考えなければたどり着けない結論にたった一歩で着地した。


 「ねえ東雲」とファルナは続けた。「人は別の世界に来てもたいてい性格を変えない。あなたもそう。あの人もそう」


 「僕は変えたつもりだけど」


 「変えたつもりで変わってないところがちゃんとある。それは悪いことじゃない。むしろそれがあるから戻れる」


 透は彼女の言葉をしばらく咀嚼した。確かにそうだった。彼はこの世界に来てからも六年間磨いてきた手書きの作法を捨てなかった。星の見方を捨てなかった。父の作法を捨てなかった。それらを捨てた瞬間に彼は東雲透ではない別の何者かになる。郡司岳人はおそらく向こうの世界でそれを捨ててこの世界へ来た。だからこの世界でも彼は手書きの観測者を嗤う。


 その夜辺境伯の野営地に戻った透は敵陣の幕舎の中央に人間が一人いると報告した。名は知らないと言った。


 「だがおそらく星のずれを作っている人物です」


 辺境伯はそれを聞いてまばたきを一度だけした。


 「人間か」


 「人間です」


 「魔王と人間とどちらが厄介か」


 「同じ星を持つ人間のほうが厄介です」


 辺境伯はゆっくり頷いた。


 その夜から北辺の魔王軍は軍師「測影官グン=ジテキ」の名で各地に布告を発するようになった。読み方は古い辺境語で「光の影を測る者」。


 透はその名を初めて聞いたとき口の中の唾を二度飲み込んだ。彼自身が辺境伯から授かった称号「測影師」と一字違いの名だった。光を測る者と光の影を測る者。鏡映の称号。鏡映の作法。鏡映の経歴。透と郡司は十年違いの航海士の系譜のなかで同じ手書きから出発し別々の方向へ歩いた。歩いた末にこの世界で対峙することになった。船員の業の深さを透は初めて自分の身で味わった。


 その夜野営の天幕で透は寝つけなかった。


 寝台はただの藁束で天幕の隅から夜風が忍び込んでいた。風は冷たかった。彼は身体を反対側に向け直し襟元を引き上げた。郡司の煙草の匂いが鼻の奥に残っていた。匂いは記憶を引き出す。新人の頃の本社の机の光景が瞼の裏に蘇った。郡司は当時まだ三十前で航海士の制服を着ていた。透が初めて出した手書きの航海計画書を彼は机の上に広げ十五分かけて隅々まで目を通した。読み終えてから一言だけ言った。「合格」。それだけだった。だが続けて彼は薄く笑いながらこう付け足した。「東雲、これくらい書けるなら俺と二人で本社を変えられるな」。


 その夜十年前の郡司の口調がはっきり蘇った。


 あの頃の郡司は手書きの航海士で透の同志だった。本社の方針が電子海図とAI化に大きく傾く前夜だった。郡司は若手の急先鋒で「電子と紙の併用が一番信頼性が高い」と主張していた。彼は実際にその主張を社内会議で何度も繰り返した。だが浅瀬の事故をきっかけに彼の主張は「電子優先を怠った時代遅れの主張」として葬られた。同志はそこで割れた。郡司は紙を捨て電子だけを信奉する方向へ転じ透は紙だけを守る方向へ残った。あいだの「併用」の選択肢は会社からもこの世界からも消えていた。


 透は天幕の暗闇の中で目を開いていた。


 目を開いたまま彼はひとつだけ決めた。郡司を殺さない。殺す相手ではない。十年前に同じ机に向かって航海計画書を書いた相手だ。彼を殺せば透自身の十年も同時に殺すことになる。船員は自分の過去を殺さない。過去を殺す者は未来も殺す。彼は自分にそう言い聞かせて目を閉じた。閉じた瞼の裏で十年前の郡司が机の前で笑っていた。笑顔は薄かったが本物だった。本物の笑顔を一度でも見せた相手を透は完全には憎めなかった。それが彼の弱さでも強さでもあった。父はおそらく同じ性質を持っていた。父も生涯誰のことも完全には憎まなかった。漁船の側の若い当直士官のことさえ。

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