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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第十四章 完全なる喪失

火は塔の頂上から燃え始めた。星を見るための塔は星を奪うために燃やされた。


 その夜ヴェルンの夜空はいつもより明るかった。


 月が満ちていたのではない。


 火が満ちていた。


 透は辺境伯の野営地から二日かけてヴェルンに戻る途中北の街道の峠で町の方角の空に立ち上る煙の柱を見た。煙は太く垂直で夜空に細く尾を引いていた。垂直の煙は風が弱い証拠でありかつ火元が一点に集中している証拠だった。透の頭は瞬時にそれを理解した。建物全体が燃えているのではない。塔の頂上だけが燃えている。塔の頂上にあるのは観測台と書斎。


 彼は馬の腹を蹴った。


 ファルナはその夜塔の屋上で星を測っていた。


 透が町に駆け込んだとき塔の入口の二重扉は内側から焼けただれ階段には黒い跡が残っていた。誰かが油を撒き火を点けた。火は階段を上り書斎を呑み屋上の観測機を黒い炭に変えていた。階段の手すりの鉄の継ぎ目が熱で歪んでいた。透の靴の底が階段の石にぴたりと貼りついて剥がれにくかった。煤が床に薄く積もっており足を運ぶたびにそれが煙のように舞い上がった。


 地図屋の老人がその夜塔の真下で倒れていた。


 左肩に深い切り傷。だが息はあった。彼は片目で透を見上げ薄い唇を動かした。


 「魔王の使いではなかった。人間だった。鎧は持っていなかった。あの夜の灰色のローブ」


 郡司岳人。


 透は老人の肩を布で巻きそれから塔の階段を駆け上がった。


 書斎の床には黒く焦げた紙の灰が散っていた。ファルナのノート二十四冊のうち十九冊が焼かれていた。残った五冊は机の下の鉄の箱に彼女が前夜たまたま仕舞っていたものだった。透はその鉄の箱の蓋を見て息を一度止めた。彼女は無意識のうちに大切な五冊を金庫に入れていた。観測者は最後の最後で何が大事かを体で覚えている。


 屋上にもファルナはいた。


 石の手すりに背を預け左の二の腕を右手で押さえていた。手のひらの下から暗い赤が彼女の藍色の長衣に滲んでいた。


 「ノートを一冊だけ奪われた」と彼女は言った。声は震えていなかった。


 「あなたの航海日誌の控えのほうも」


 透は両膝を屋上の冷たい石につけた。


 「君は」


 「私は大丈夫。腕骨は折れてない。ただ深い」


 彼女の左腕は暗がりのなかでもはっきりわかるほど血を流していた。傷の長さは肘から肩までの半分。剣で薄く撫でられたような傷だった。深いところは骨に届いている。透は布を裂き傷口を縛った。手が震えた。彼の手は北の嵐の夜にも魔狼谷の岩塔の上でも辺境伯の前でも震えなかった。いま震えていた。


 「ごめん」と透は言った。


 「なぜ謝るの」


 「君がこんな目に遭うなら僕は……」


 「私が選んだ」とファルナは静かに言った。「あなたを塔に住ませたのもあの男の動きを偵察したのも私が選んだ。あなたのせいじゃない」


 彼女の目は火明かりの中でもまっすぐだった。


 透は答えなかった。代わりに両手を屋上の石に押しつけ何度も何度も頭を下げた。頭を下げるという動作はこの世界では侮辱的だと聞いていた。だが彼の身体はそれしか知らなかった。


 ファルナはやがて痛みのなかで彼の頭の上に軽く右手を置いた。


 「ねえ」と彼女は言った。「私のノートが燃やされたならもう私たちには何も残ってないと思ってる」


 「思ってる」


 「でも忘れないで。あなたの頭の中にはある」


 「ある」


 「あなたの手の中にもある」


 「ある」


 「私たちの仕事はそれでも続く」


 透は顔を上げた。


 屋上の石の隙間に燃え残った紙の灰が夜風で渦を巻いていた。その渦の向こう北の空にはいつかと同じ薄い赤の擬光が今夜はずっと濃く滲んでいた。


 ファルナは透の肩に額を寄せた。痛みのせいか寒さのせいか彼女の体は震えていた。透は彼女の震えを自分の上着のなかに包み込むようにして抱えた。書斎の燭台の油の匂いが彼女の髪に染みついていた。煙の匂いと薄い汗の匂いと藍色の長衣の縁に残った草の匂い。透はそれらを別々の引き出しに分けて記憶した。船員の鼻はそうしてあらゆる匂いを別々の場所に保管する。


 「ねえ東雲」と彼女は囁いた。


 「うん」


 「もし帰れたら私の燃えてないノート五冊を持って帰って」


 「全部か」


 「全部。あなたの世界のどこかにあの数字を読める人がいるかもしれない」


 「読めなくても」


 「読めなくてもいい。でも持って帰って。書いた人がいたという証拠を一冊だけでも残してくれたら」


 透は答えた。


 「持って帰る」


 「約束」


 「約束」


 屋上の風がふたりのあいだを抜けた。煙の匂いはまだ立っていたが時とともに薄れていく気配があった。透は彼女の体を抱えたまま夜明けまでそこにいた。眠らなかった。眠れなかった。夜明けの最初の光が東の地平線から差し込んだとき彼女の傷の出血はようやく止まっていた。透は彼女を町医者の家まで運び長い坂道を一度も足を止めずに歩いた。歩きながら彼の頭のなかでは三本の方位線が回り続けていた。郡司岳人の動き。次の襲撃の予測地点。歪みの中心点の正確な座標。三本の線はまだ交わっていなかった。だが交わるまでの時間が残り少ないことは確かだった。


 町医者の家に着いてからの三日間透はファルナの寝台のそばを離れなかった。


 離れなかったというよりも離れられなかった。彼女が眠っているあいだに彼が一度でも書斎に戻ったら戻ったまま動けなくなる気がした。書斎の机にはまだ昨日まで彼女が書いていた頁が広げられたままのはずだった。広げられた頁の隣には彼女の使いかけの鉛筆が転がっているはずだった。彼はそれを目にしたら胸の奥のもうひとつの錨が降りる気がした。錨が降りればそこに留まる。留まれば仕事ができなくなる。仕事ができなくなれば彼女の傷の理由は意味を失う。


 彼は寝台のそばの粗末な椅子に座ったまま膝の上の白紙の帳面に鉛筆を走らせ続けた。


 帳面の頁が一枚ずつ埋まっていった。


 ファルナが薄く目を開けたとき彼女は最初に透の鉛筆の音を聞いた。鉛筆の音は紙の上の摩擦音だ。観測者の耳はその音を一度覚えるとどんな深い眠りからでも目を覚ます。彼女は目を開いたとき自分が町医者の家にいることを認識する前に透がまだ書いていることを認識した。


 「東雲」と彼女は弱い声で言った。


 「ここにいる」


 「鉛筆の音」


 「うん」


 「変わってない」


 「変えてない」


 彼女は薄く笑った。


 その笑いは熱を持っていなかった。だが温度はあった。生きている人間の温度だった。透はその温度を確かめると鉛筆を一度だけ膝の上に置いた。置いただけで取り上げなかった。鉛筆は彼の膝の上で待機していた。観測者の鉛筆は持ち主が次に手に取るまでいつまでも同じ角度で待機する。船員時代も塔の書斎でも今この町医者の家でも同じだった。鉛筆は仕事を裏切らない。鉛筆を裏切るのはいつも書く者のほうだった。透は自分が今夜は鉛筆を裏切らないと約束した。

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