第十五章 闇夜をさまよう魂
傷ついたファルナは眠りながら数字を呟いていた。彼女の頭の中にはまだ二年分の星座があった。
ヴェルンの町医者の家でファルナは三日間高熱を出した。
医者は四十歳ほどの痩せた女で薬草と最低限の治癒魔法を併用する人だった。完全な回復魔法はこの町には届かない。神殿の高位の治癒術師は王都にしかいない。だがそれでも普通の中世史実準拠の医療よりはずっとましだった。傷の感染による敗血症の心配がない。それだけで透は救われた気持ちになった。
寝台のそばで透はずっと白紙の帳面を膝に開いていた。
帳面は地図屋の老人が店の奥から持ち出して譲ってくれたものだった。老人は片目を糸で縫われた状態で唇だけで言った。
「あんたの数字をもう一度書け」
透はその夜から頭の中にある数字を白紙に書き直し始めた。ファルナの二年分の天測値。彼自身の半年分の追加観測値。風向気圧気温それと彼が魔狼谷で記録した魔狼の出現時刻。すべてを頭の引き出しからひとつずつ取り出して紙の上に並べた。
書きながら自分でも気づかなかった事実に彼は気づいていった。
ヴェルンの基準星シェルのずれとアジル陥落の日時。
北方のロワール港の星のずれと近隣の村の魔物の出現時刻。
南方の小村ベインのずれと辺境伯軍の伏兵が成功した時刻。
すべての数字が頭の中でそれぞれ別々の方位線として走っていた。
彼はそれらを紙の上でもう一度交差させた。
三日目の夜が明ける頃彼の手元には新しい一枚の地図が完成していた。地図には世界中の星のずれと魔物の出現と災害と不作とすべての異常事象の発生地点が点として打たれていた。点と点を結ぶとそれは大陸を覆う巨大な蜘蛛の巣のような線になった。線の交わる中心点はただひとつ。
ナクトルの古城。
しかもそこは世界の歪みが「生まれてくる」場所だった。
歪みの中心。
召喚の錨地。
ここをただ一点潰せば星のずれは止まる。魔物の出現の規則性は崩れる。魔王軍はその動力を失う。そしておそらく彼自身も元の世界へ帰る通路を見つけることができる。なぜなら召喚の錨地は二つの世界を繋ぐ綱だからだ。彼が来た光柱の正体。郡司が来た光柱の正体。すべてナクトル古城の地下で一本の綱としてたぐり寄せられている。
透は鉛筆の先で地図の中央の点を軽く叩いた。
点は黒く小さく揺るぎなかった。彼の胸の奥で何かがようやく定まった。
寝台の上のファルナが薄く目を開けた。
「数字書けた」
「書けた」
「どんな数字」
「世界のずれの中心。それと僕たちの帰る場所」
ファルナは少し笑った。
「私の帰る場所は塔の屋上」
「君の帰る場所は君の決めた場所だ」
ファルナは目を閉じた。眠る前に彼女は最後にこう囁いた。
「あなたもう私のことは数えなくていい。あなたの帰る場所だけを数えて」
透は答えなかった。
だがその夜彼は地図の上の中央の一点の隣にもう一つ塔の屋上の点を鉛筆で小さく打った。二つの点を彼は結ばなかった。結ぶのはもう少し先でいい。
夜更けまで彼は新しい地図の上に細かい計算を書き込み続けた。三日目の朝までに彼の手のひらの皮膚は鉛筆を握りつづけて軽い水ぶくれができていた。船員時代でも記録の量がここまで集中したことはなかった。だが手は止まらなかった。止まれば彼女が眠っていることを思い出してしまう。眠っている彼女のそばで何もしないでいるのは耐えられなかった。手を動かしている間だけ彼は彼自身を保てた。
四日目の朝医者がやってきてファルナの傷を確かめた。
医者は短く頷いた。
「熱は引いた。あと十日で抜糸できる。腕は完全には元に戻らないけど書き物には支障ない」
「書き物に支障ないなら大丈夫です」
医者は透の顔をしばらく見てから低く言った。
「あんたいい顔になったね。最初に来たときは死人みたいだった。いまは少なくとも生き残ろうとしてる顔をしてる」
透は答えなかった。
答える代わりに新しい地図を畳んで懐に仕舞った。仕舞ったときの紙の角の音が彼の胸の奥に小さく響いた。その音を彼は人生でいちばん信頼できる音として記憶した。
町医者の家を出る前に透は地図屋の老人をもう一度訪ねた。
老人はもう寝台に起き上がれるようになっていた。糸で縫われた目はまだ完全には治っていなかったが残った片目の鋭さは前にも増していた。透が新しい地図の写しを差し出すと老人は左手だけで受け取り長い時間目を通した。
「あんたここまで全部覚えていたのか」
「全部」
「ファルナの娘の二年分を」
「全部」
「あんたの記憶は塔より大事だ」
老人は淡々と言った。彼の口調には誇張がなかった。誇張のない誉め言葉は船員にとって最上の評価だった。透は深く頭を下げた。下げた頭を上げるとき老人は左手で薄い革袋を差し出した。袋の中には木の根を削った小さな彫り物が三つ入っていた。
「これは」
「うちで代々作ってる旅守りだ。ナクトル古城の周辺の地形を彫ってある。三百年前から伝わる」
「三百年前」
「あんたの行く先の地形は地表からは見えん。だが地下の祭壇への通路は彫り物の側面に刻まれた線で示してある。ここを通れ」
老人の指は彫り物の側面の細い線をなぞった。線は彫り物の根元から塔の頂上に向かって螺旋を描き途中で側面に消えていた。透はその線の意味を理解するまで数秒かかった。理解した瞬間に彼は深く息を吸い込んだ。これは地下祭壇への秘密の通路の地図だった。三百年前にこの彫り物を作った職人は地下の通路を知っていた。代々の彫り師たちはその知識を旅守りという形で隠し継いできた。読める者だけが読める。読めない者にはただの土産物にしか見えない。
「老人」
「持っていけ」
「お礼は」
「礼ならあんたの新しい地図でいい」
透は彫り物を懐に入れた。懐の中で鉛筆と航海日誌と一緒に小さく音を立てた。三つの音が混じり合って彼の体の中心に温かい重さを作った。書く者と測る者と歩く者の三つの自分がその瞬間ひとつに揃った。彼はようやく完全に出発できる体になっていた。




