第十六章 第三幕への突入
辺境伯の前で彼は人生で初めて声を荒げた。
ファルナの熱が引いた七日目の朝透は単身で辺境伯の城へ馬を走らせた。
彼の鞄には新しい地図と塔の焼け跡から拾ってきた焦げた紙の切れ端それと自分の航海日誌の控えがあった。控えは灰色のインクで書かれた彼の頭のなかからの再現だった。古い文具屋で買ったその灰色のインクは粒子が粗くペン先に詰まりやすかったが書きやすさよりも紙への定着のよさを彼は選んだ。一度書いたら水でも擦れない。それが船員にとっての記録の理想だった。
城門で衛兵は二度彼の名を確かめてから通した。
今度は末席にではなく中央の長机の正面の椅子に通された。辺境伯はその朝早くから評議会を始めていたらしくテーブルには冷めた羊の骨つき肉の皿と半分残った蜂蜜酒の杯が並んでいた。透の顔を見て辺境伯はわずかに眉を上げた。
「測影師よ、何があった」
「塔が燃やされました。ファルナ・ノクタは負傷しました」
部屋の空気が固まった。
辺境伯はゆっくり杯を置き両手の指を組んだ。
「下手人は」
「魔王軍の幕舎にいた人物です。同じ世界から来た者と思われます」
「同じ世界」
「私と同じ嵐で同じ光柱に呑まれて落ちた人物です」
会議室の隅で書記官が筆を止めた。隅の神官の若い男が眉を吊り上げて何かを言いかけたがそのまま口を閉じた。透はその神官を見た。神官は二週前カラトスの会議で透の地図を「占星師の地図か」と訊いた男だった。今日は彼の隣に上位の枢機卿風の白い長衣の老人が座っていた。
辺境伯は二人をそれぞれちらりと見てそれから透に向き直った。
「お主の地図を見せよ」
透は新しい地図を長机の中央に広げた。
地図には世界中の異常事象がすべてひとつの点に向かって流れ込んでいた。ナクトル古城。部屋の空気がもう一度ほんの一瞬固まった。
神官の男が最初に声を上げた。
「神聖な儀式の場をあなたは異界の言葉で呼ばわるのか」
透は神官のほうを見た。神官は若くまだ二十代前半に見えた。声は鋭いが目には自信が薄い。
「呼び方はなんでもいい」と透は言った。「ただそこに世界の歪みの中心がある」
「証拠は」
「ここに」
透は焼け跡から拾った紙の切れ端を机の上に並べた。黒く焦げた角にファルナの几帳面な文字で観測値の一部が残っていた。神官の男はそれを一瞥して鼻先で笑った。
「ただの観測ノートの破片だ。これがなんの証拠になるのか」
「これだけが燃やされたから、です」
透の声は静かだった。
「あの夜塔は完全に焼かれました。だがこれだけがなぜか燃え残った。あの灰色のローブの男はノートのすべてを灰にする時間が十分にあったはずです。だが彼は急いでいた。一冊だけを奪い火を点けただけで引き上げた。彼は書かれた値そのものに価値があると思っていない」
神官の男は眉を寄せた。
「では何に価値があると」
「観測者です。観測を続ける人間そのものに」
部屋の空気がもう一度固まった。
枢機卿風の老人が初めて口を開いた。声は低く穏やかだったが端に鋭い切れ目があった。
「測影師よ、お主はこの世界の星のずれを誰よりも早く見つけた。それは神殿の役目だった。なぜ神殿ではなくお主が見つけたのか説明できるか」
透はその問いに少しだけ時間をかけて答えた。
「神殿が見つけられなかったのは派遣した観測者の報告書を読んでいなかったからです」
会議室が完全に静まった。
「読んでいなかった」
「ファルナ・ノクタが二年間月ごとに送り続けた報告書に毎月星のずれの一行が書かれていました。彼女の字は几帳面で値は正確でした。だが返事は一度も来なかった」
枢機卿風の老人は唇の端を一度だけ歪めた。
「お主は神殿を糾弾する気か」
「糾弾しません。ただ事実を述べました」
「事実だけで国は動かんぞ、測影師」
「動かないなら動かさなくてもけっこうです。私は辺境伯閣下に向けて報告しているだけです」
辺境伯はそのとき初めて大きく笑った。短く一度だけだったが部屋の空気が緩んだ。彼は枢機卿風の老人に向かって言った。
「猊下、わしの測影師はこういう男でな。神殿のお歴々には不器用と映るかもしれんが現場ではこれが頼もしい」
枢機卿風の老人は何も言わずただ瞼を半分閉じた。
辺境伯は次に若い神官のほうを向いた。
「お主には記録係を頼みたい。測影師の地図を全部写してわしの軍の各前線に届けてくれ」
神官の男は腰を浮かせた。
「閣下、私は……」
「断る理由は」
「ありません」
「では頼んだ」
辺境伯の声は柔らかかったが議論を許さない硬さがあった。神官の男は両手を前で組み深く頭を下げた。彼の頬は薄く赤かった。透はその赤さを記録した。船員は他人の頬の赤さをよく観察する。怒りなのか恥なのか興奮なのか。観察を重ねれば次にその人が動くタイミングが読める。
会議の終わりに透はもう一度長机の中央に進み出た。手のひらに鉛筆を握りしめていた。鉛筆の角が掌の皮膚に小さな溝を作っていた。
「閣下、私は」と彼は言った。「閣下に提案します」
「申せ」
「ナクトル古城への侵攻を三週後に計画したいと存じます。歪みの中心点を物理的に閉じる作戦です」
「侵攻の正面案は」
「正面はカラトス方面の主力。陽動として東の渓谷から騎兵を回します。中央に教会の治癒術師団を配備し神殿の老司祭たちが月の出ない夜に雲を呼ぶ祈祷を行います。雲で星を隠せば敵の星位改竄魔法は機能を失います。私とファルナ・ノクタはギルドの精鋭十二名と共に古城の地下祭壇に潜入し中心点を本来の星位の値で上書きします」
辺境伯はその案を聞いて長く沈黙した。
沈黙のなかで彼は両手の指を一度組み解いた。
「測影師よ、お主はわしの軍を測量の道具のように使う気か」
「いいえ」と透は答えた。声は震えなかった。「閣下の軍は私の道具ではありません。私の地図が閣下の軍の道具です。そして道具は使う人間の意思に従います」
辺境伯はもう一度短く笑った。
「よかろう。三週後だ」
透は深く頭を下げた。頭を下げながら自分のなかの何かが確かに変わったのを感じた。声を荒げたわけではない。ただ初めて声を躊躇わずに外に出した。それだけだった。船員にとってそれは大きな変化だった。海の上では声を出さなければ誰にも気づかれない。気づかれないまま沈む船員もいる。彼はようやく沈まないことを覚えた。
会議室を出るとき廊下で神官の若い男が透を呼び止めた。
「測影師どの」と神官は低い声で言った。
「はい」
「先ほどは失礼を申しました」
「気にしていません」
「私は王都の神殿で天測の修練を三年積みました。だがあなたほどの精度には届かなかった。届かなかった理由がさきほど分かりました」
「理由」
「私は読まれることを期待して書いていました。あなたは読まれないことを前提に書いていました」
神官の男は若かった。神官の白い長衣の襟元に細い金の縫い取りがあり彼の信仰の真面目さを示していた。透は彼の言葉に短く頷いた。
「読まれることを期待すると字が緩む」
「そうでした」
「読まれないと思って書く字だけが揺らがない」
「私はもう一度書き直します。最初の一文字から」
「ご自分のために」
「ご自分のために」
神官の男は深く頭を下げ廊下を歩み去った。歩み去る背中は廊下の窓から差し込む朝の光のなかに細く伸び角を曲がるところで一度だけ揺らいだ。揺らいだのは光のせいだった。光は人間の影を曲げる。だが人間の歩く方向は曲げない。神官の男はまっすぐに歩いて行った。透はその歩き方を見送り自分の鉛筆を握り直した。
書く者がもう一人増えた。
書く者の数は数えなくていいと透は思った。だが数えてしまった。数えてしまったのは彼が船員のなかの船員だった証拠だった。船員はいつでも仲間の頭数を数える癖がある。仲間が一人増えれば一人ぶん安心が増える。安心は積み重ねるとやがて勇気になる。勇気は船員が手にできる最後の通貨だった。




