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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第十七章 最後の航海計画

パッセージプランは出航地から目的地までを緯度経度の交点で繋いでいく作業だ。航海士は海図の上にこれから歩く未来を一本の鉛筆で描く。


 評議会のあと塔の書斎の机に辺境伯軍の地図が広げられた。


 書斎は焼けた階段を仮の板で補修して使えるようになっていた。床の煤はまだ完全には取れていない。書斎の窓ガラスはひびが入ったまま透明な蝋紙で塞いであった。蝋紙は風を通すが雨を通さない。冬の夜には光を温かく曲げる。透にとってこの臨時の書斎は彼自身の異世界での仕事場として最後まで使う場所になるだろうと感じられた。


 ヴェルンからナクトル古城までは直線距離で四十里。途中に三つの大河二つの峠ひとつの古い隘路がある。隘路には魔物の哨戒線が張られている。


 透は地図の上に新しい鉛筆線を引き始めた。


 船員の言葉で「パッセージプラン」と呼ばれる作業である。出発地から目的地までいくつもの中継点で結びながら一本の線として未来の経路を描く。各中継点で所要時間燃料消費天候の想定緊急時の代替経路すべてを書き込む。


 海図の代わりに辺境伯軍の大陸図。


 燃料の代わりに糧秣と馬糧。


 天候の代わりに魔物の出現規則と星位。


 すべてを彼は自分の見慣れた書式に翻訳した。書式さえ揃えれば船員はどんな世界でも航海計画を立てられる。彼はそれを六年の現場経験で知っていた。書式は仕事の半分以上を肩代わりしてくれる。残り半分は経験と度胸だ。経験は積めば積むだけ増える。度胸は経験についてくる。だから順番を間違えなければ船員は生き延びる。


 ファルナは机の反対側に座り左腕の包帯のまま星座盤を回していた。


 「夜の三刻北の星座『シェル』がナクトル古城の東塔の真上に来る」と彼女は言った。


 「ではその瞬間を侵攻時刻にしよう」と透は答えた。


 「侵攻の合図は」


 「シェルが東塔の真上に揃ったとき」


 「敵にも見える星だ」


 「敵には見えなくしてもらう」


 透はそう言って神殿に依頼書を書いた。神殿の老司祭たちは月の出ない夜に祈祷で雲を呼ぶ古い儀式を持っていた。雲は星を隠す。だが計算尽くの観測者にとって雲のなかでも星の位置は確定できる。


 ファルナはそのために雲があっても星の位置を計算で割り出す古典航法を辺境伯軍の若い天測士見習い五人に伝授し始めた。透は若い見習いたちを集めてヴェルンの広場で最初の講義を行った。


 「目標を二つ取れば自分の位置が分かる。目標を三つ取ればその精度を確かめられる」


 「目標が雲で見えなかったら」


 「直前の観測値と進んだ時間と速度からいまの位置を推定する。これを推測航法という。船員のあいだでは『デッド・レコニング』と呼ぶ」


 「予測が外れたら」


 「外れたぶんは次の観測で自分で修正する」


 「自分で」


 「自分で」


 見習いたちは最初は半信半疑だった。


 だが五日目の夕方彼らのうちの三人は雲の下でも互いの位置を八割の精度で当てられるようになった。


 ファルナはその様子を塔の二階の窓から見ていた。彼女は左腕の傷の包帯をもう、いちいち気にしなくなっていた。包帯はまだ巻いてあったが痛みの程度は彼女の表情から読めなくなっていた。痛みを表情に出さないのは観測者の作法の一部だ。彼女は鏡を見ながら表情の出し方を意識的に練習しているふしがあった。それは透がブリッジで一度も笑顔を作れなかった新人時代の癖と少しだけ似ていた。


 ある夕方ヴェルンの広場で五人目の見習いがようやく雲下の三角測量を成功させた。広場の隅でその様子を見ていた地図屋の老人が片目で透のほうを見た。老人は左肩に布を巻いたままだったがその布の下の傷はだいぶ塞がっていた。


 「測影師さん」と老人は言った。


 「はい」


 「あんたの後任を育ててるんだな」


 「後任」


 「あんたがどこかへ行ったあとも町の若い天測士たちは三角測量を続ける。それは後任を育てたってことだ」


 透は答えなかった。


 答えようとした言葉が喉の手前で止まった。


 「老人」と彼はようやく言った。「私はどこへ行くか分かりません」


 「分からないままでいい」と老人は言った。「ただ後任を残せる仕事をしてる人間はもう一人前だ。一人前は自分の行き先を一人で決めていい」


 透は深く頭を下げた。老人は片目で薄く笑った。


 その夜彼は塔の書斎で最終のパッセージプランを清書した。


 出発地はヴェルンの西の野営地。


 目的地はナクトル古城の地下祭壇。


 中継点は五つ。


 予定所要日数は十一日。


 復路の代替経路は三つ。


 万一の不時着地点として塔の屋上を一つ記した。塔の屋上に彼は赤い鉛筆で小さな丸印を打った。その印に彼自身気づかないふりをした。気づかないふりをすればその印は最後まで使わずに済む。船員は赤い印を使わずに済むように航海する。


 パッセージプランを清書し終えたあと透はそれを三部複写した。


 原本は彼が携帯する。複写一部は辺境伯の参謀本部に提出する。残り二部のうち一部はファルナに渡し一部は地図屋の老人に預けた。理由はひとつだった。彼が万一帰らなければ計画書だけは複数の場所に残る。残った計画書は次の世代の天測士が読むことができる。読まれた計画書はその時点で生き返る。書く者は自分が消えても書類が消えなければ仕事は続く。船員の家系の暗黙の鉄則だった。


 原本をファルナに渡したのは複写ではなかった。原本だった。


 彼は最後まで考えたうえで原本を彼女に渡すと決めた。原本には鉛筆の濃淡の差や消し跡や書き直しの痕跡が残っている。複写ではそれらが失われる。透は最後の最後で迷いの痕跡まで含めて彼女に預けたかった。迷わなかった航海士はいない。迷った後の決断だけが本物だった。


 「これは原本だ」と彼は言った。


 ファルナは静かに受け取った。


 「重い」


 「重い」


 「これを持って私は何をすればいい」


 「君は何もしなくていい。ただ持っていてくれ」


 「持つだけ」


 「持つだけ」


 ファルナは原本を両手で胸の前に抱えそれから何度か頷いた。頷きながら彼女の目は紙の表面を一行ずつ追っていた。透の鉛筆の濃淡を彼女は読み取った。書き直しの跡を読み取った。迷いを読み取った。読み取り終えた彼女は最後にこう言った。


 「あなたここで迷ってた」


 「うん」


 「迷っていいよ」


 「うん」


 「迷ったぶんだけここに残るから。私が読み続けるから」


 その夜書斎の燭台の炎は二つとも夜半まで揺れずに燃え続けた。揺れずに燃える炎は風がないことの証拠だった。風がない夜は出発に最も適した夜だった。船員はそれを知っていた。透は明朝の出発に向けて鉛筆を耳の上に挟み目を閉じた。閉じた瞼の裏で塔の屋上の赤い丸印が一度だけ薄く点滅した。点滅は彼の心拍と同じ間隔だった。

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