第十八章 決戦
城門は星の動きに合わせて開いた。神の手ではなく二人の天測士の手で計算ずくで。
ナクトル古城が初めて視界に入ったのは出発から九日目の夜明けだった。
地平線の端に黒い塔が四本墓標のように立っていた。古城はもとは古代帝国の前哨基地だった。岩の山の上に築かれ四本の塔は東西南北を向いている。城壁は三重。中央に地下まで深く穿たれた大祭壇がある。古代帝国はこの祭壇で星と海と王の権威を結びつける儀式を行っていたと古い書物には記されているがその実態はもう誰も覚えていない。覚えていないからこそ魔王軍はそこを召喚の錨地として利用できた。
辺境伯軍は城の南西の谷に計画通りの位置で野営を張った。
軍勢、騎兵五百、歩兵千二百、弓兵三百、神殿の治癒術師団八十、それとヴェルンの若い天測士見習い五人。その中央に透の鉛筆書きの大地図が辺境伯の天幕で広げられていた。地図は出発の朝に透が清書したものだった。罫線は乱れず線は確かだった。書きながら彼の手は震えなかった。震える理由がなくなっていた。震えないということは怖くないということではない。怖さの種類が変わったということだった。死を怖れる種類の怖さから死んだあとの記録の残し方を怖れる種類の怖さへ。後者の怖さの前で船員の手はかえって落ち着く。
ファルナはその夜野営地の中央の天幕で星座盤を回していた。
彼女の左腕の傷はもう抜糸を終えていたが薄い赤みは肘から肩までの線として残っていた。彼女はその線を制服の下に隠さなかった。隠さないと決めたのは出発の三日前のことだった。透がそれを理由を訊いたとき彼女は短く答えた。
「これは記録だから」
記録は隠してはいけない。透はその一言で何も言えなくなった。
夜の三刻星座シェルが東塔の真上に来た瞬間戦いは始まった。
北からは弓兵が雨のように矢を放った。
西の谷からは騎兵が突撃した。
神殿の老司祭たちが夜空に祈祷を捧げ薄い雲を引き寄せて星を半分隠した。
魔王軍は最初の半時間まったく動きが鈍かった。彼らは星の動きで自分たちの結界を強化する習慣を持っていた。星が雲に隠されると結界の更新が遅れる。透の作戦はその遅れを突くものだった。
歩兵が第一城壁の門に取り付き扉を破った。
辺境伯自身が馬上で第二城壁の南門を抜けた。
透とファルナは二十人の選抜班とともに東塔の根方から地下祭壇への秘密の通路に潜り込んだ。
その通路はヴェルンの地図屋の老人が若い頃に冒険者として一度だけ侵入したことがあった忘れられた隘路だった。老人は片目で塔の焼け跡でその経路を透に伝えた。覚えるしかなかった。透はそれを頭の中の地図のひとつとして書き留めていた。書き留めた経路は書き留めなかった経路よりずっと信頼できる。彼はそれを六年の現場で学んでいた。
地下は冷たかった。
石の壁から水が染み出し苔の匂いともう一つの匂いが混じっていた。煙草の匂い。あの古い銘柄の煙草。郡司岳人がいつも引き出しに隠していたあの一箱。彼はこの世界でもまだ同じ銘柄を吸っている。透は不思議な気持ちでそのことを受け止めた。人は別の世界に来ても癖を変えない。ファルナの言葉が脳裏で再生された。
透は止まった。
ファルナがすぐ後ろで止まった。
通路の先広い祭壇の中央に男が一人立っていた。
灰色のローブ黒い襟頭の冠。郡司岳人。彼は振り向かなかった。ただ背中を見せたままゆっくり言った。
「東雲。やっと来たのか」
透は答えなかった。
代わりに二十人の選抜班に後退を指示した。彼らは祭壇の入口の四角い石の柱の影に隠れ息を殺した。透とファルナだけが祭壇の中央へゆっくり進んだ。透は懐から自分の鉛筆を取り出した。ファルナは星座盤の写しを構えた。
郡司はようやく振り向いた。
彼の顔は痩せていた。元の世界で見たときよりもずっと痩せていた。だが目だけは変わらずに薄笑いを含んでいた。
「東雲、お前まだそんなノート持ってるのか」と彼は言った。「AI化を進めればお前みたいな手書き亡霊は要らなくなるって何度言えば分かるんだ」
透の手はもう震えなかった。
彼は懐から自分の航海日誌を取り出した。表紙の角は長旅で擦り切れていた。
「あなたが」と透は言った。「俺を嗤った言葉を、俺は全部ここに書いてきた」
「書いてどうした」
「書いて生き残った」
郡司の顔から笑いがほんの一瞬消えた。
彼はその瞬間何かを思い出しかけた顔をした。二十年前新人の頃の自分が似たような手書きノートを毎晩書いていた頃の自分を。だが彼はすぐにその顔を嫌悪で書き潰した。
「うるさい亡霊」
郡司は懐から銀の星座盤を取り出した。盤の表面に彼自身が手で書き換えた星の位置が彫り込まれていた。彫り込みは精緻だった。透は一瞬その精緻さに見惚れた。それは郡司岳人がかつて手書きの航海士だった頃の腕の名残だった。彼の手の中にもまだ「書く者」の指がある。ただ向けている方向が逆なだけだ。
彼が盤を回すと祭壇の四隅の柱から青白い光が立ち上った。召喚の錨地が稼働を始めた。
ファルナがささやくように透に言った。
「いまだ」
透は懐から自分の鉛筆を強く握り直した。鉛筆の角が掌の皮膚に深く食い込んだ。痛くなかった。むしろその痛みが彼を彼にしておく錨だった。船員にとって痛みは目印になる。痛む場所が分かれば自分の体の現在位置が分かる。痛みのない場所は危険だ。痛みのない指は壊死している指だ。
郡司は銀盤を回し続けた。
四隅の柱の光が高さを増していく。光柱は天井へ届く前に水平に曲がり祭壇の中央の低い石の台座の真上で交差した。交差点に青白い渦が生まれた。渦は彼の知る召喚の光柱と同じ形をしていた。
郡司はようやく振り向いた目で透を見た。
「東雲、お前ここで死ぬのは惜しいぞ」
「死ぬとは言っていません」
「俺の盤が回り続けるかぎりこの世界は歪み続ける。お前の地味な観測ではもう間に合わない」
透は答えなかった。
代わりに右手の人差し指でファルナの方角を指した。それは選抜班の天測士見習いに対する合図だった。「方位を取れ」の合図。船員時代に若い甲板員と取り決めた古い手信号だった。ファルナはその手信号を四週間の訓練で完全に身につけていた。彼女は左手で自分の星座盤の写しを構え右手で羅針盤の針の方向を確認した。
戦いはこれから始まる。
郡司はそれにまだ気づいていない。
なぜなら彼の戦いは「光を操作する戦い」だが透の戦いは「光の位置を測る戦い」だからだ。
二つは別の戦いだった。
郡司が銀盤を回す手の動きを透はじっと見た。
その手の中にかつての几帳面な航海士の指の動きを彼はもう一度見つけた。十年経っても癖は抜けない。郡司は盤を回すときに必ず右手の小指を一度だけ盤の縁に当てて補正する。古い船員の癖だった。手書きの航海士が分度器を構えるときに小指で角度を保つ動作と同じだった。
郡司岳人はまだ手書きの男だった。
彼自身そのことに気づいていないだけだった。
透は鉛筆を強く握り直した。
握り直しながら彼はようやく決戦の本当の意味を理解した。これは魔王と勇者の戦いではない。手書きをやめた男と手書きをやめなかった男の戦いだった。それだけだった。それだけのことが世界の歪みの中心で雌雄を決する。船員の業の深さはこういうところに現れる。透は深く息を吐きそしてファルナのほうに小さく頷いた。
ファルナが頷き返した。
戦いの第二幕はそうして音もなく始まった。
音がないというのは比喩ではなかった。
地下祭壇の四隅の柱から立ち上る青白い光は本来なら微かな共鳴音を伴うはずだった。だが透とファルナがそれぞれの位置に着き道具を構えた瞬間に祭壇の空気は完全に静止した。空気が静止した理由を透は理解した。郡司の銀盤がいま発している星位改竄の魔法は彼自身が無意識に守っているヌーンレポートの書式に依存している。その書式は厳格な時刻と数字の連続を要求する。連続が途切れれば魔法は機能を失う。透とファルナがクロスベアリングを取る瞬間は彼らの呼吸も鉛筆の音も計算尽くで連続から外れていた。連続から外れた呼吸は郡司の書式に「穴」を空ける。穴の空いた書式は数字の流れを乱す。乱れた流れは魔法を弱める。
戦いの本質は呼吸の長さの戦いだった。
郡司は連続して数字を唱えなければならない。
透とファルナは呼吸を整えながら断続的に方位を取ればいい。
時間は彼らの味方だった。




