第十九章 クライマックス――船位確定
三本の方位線が地下祭壇の中央で一点に交わった。
祭壇は広い円形の広間だった。
直径およそ二十間。中央に低い石の台座がありその四隅に青白い光を立ち上らせる柱がある。柱の天井寄りにそれぞれ古代の星座を象った銀の彫刻が嵌め込まれていた。彫刻の表面には長い年月の埃と新しい煤の混じった層が薄く積もっていた。新しい煤は最近誰かが火をつけて何かを焼いた跡だった。透はその煤の匂いをひと嗅ぎで識別した。羊皮紙の燃え跡。ファルナの奪われたノートの一冊が郡司の手でこの祭壇のどこかで燃やされた跡だ。
郡司は台座の中央に立っていた。
手の銀盤を回しながら低い声で何か呪文のような数字を唱えていた。彼が唱える数字は星の位置を改竄するためのものだった。本来あるべき場所からずれた星位を彼の盤が四方の柱に投影し世界の天球をすこしずつ歪めていく。彼の唱える数字は透の知らない言語の発音だがその数字の連なりかたは透のよく知っている書式だった。
ヌーンレポートだった。
彼の口は二等航海士時代に毎日読み上げていたヌーンレポートのフォーマットで数字を唱えていた。日付。時刻。緯度経度。風向風速。ROB。ETA。順序がまったく同じだった。透は息を呑んだ。郡司は十年前の自分の体に染み付いた書式をこの世界で星の改竄魔法の発動キーに転用していた。手書きを捨てたつもりで彼は手書きの書式に依存して魔法を運用していた。皮肉だった。
透はファルナを目で促した。
ファルナは祭壇の入口の左手南東の柱の根方に走った。
透は反対側北西の柱の根方に走った。
二人は同時にそれぞれの位置で自分の道具を構えた。
透の手には鉛筆と辺境伯軍の小さな分度器。
ファルナの手には彼女自身の手書きの星座盤の写しと塔から持ち出した古い羅針盤。
二人がいま行うのはたった一つの作業だった。歪みの中心点をクロスベアリングでふたたび確定する。郡司の盤が「ずらした」星位をファルナと透の道具が「ずらされる前の本来の位置」として測り直す。本来の位置から見たときいま現に世界が動いている方向は必ず歪みの中心点を指し示す。三方向からその方向線を引けば線は一点に交わる。
その一点が召喚の錨地。
その一点を神殿の治癒術師団が本来あるべき星位の値で上書きする。
計画はたったそれだけだった。
ファルナが最初の方位を取った。
南東の柱から見た本来の星位の方向、コンパス値五十三度。
透が二番目の方位を取った。
北西の柱から見た本来の星位の方向、コンパス値二百三十一度。
最後の一本は入口の柱の影に潜んでいた若い天測士見習いの一人が震える手で測った。
南西の柱から見た本来の星位の方向、コンパス値三百二十四度。
三本の線が祭壇の中央の低い石の台座の上で一点に交わった。
交点は彼らの予測どおりの位置にあった。
予測どおりの位置にあったということは予測の前提となるすべての数字が正しかったということだった。ファルナの二年分の観測。透の半年分の追加観測。魔狼谷の出現規則。アジル陥落の日付。すべての数字が一点に向かって流れ込みその一点が真実だった。船員のクロスベアリングは世界の真実を決して見逃さない。
郡司がその瞬間振り向いた。
彼の顔は青白い光のなかで初めて何かの感情を浮かべていた。
恐れではなかった。
悔しさでもなかった。
ひどく疲れた顔だった。
「東雲」と彼は言った。「お前はいつもそうだ。地味な仕事を地味なまま続ける」
透は答えなかった。
代わりに神殿の治癒術師団が入口の柱の影から長い詠唱を始めた。彼らの詠唱はファルナの計算した「本来の星位」を四隅の柱に書き込む祈祷だった。詠唱が進むにつれて柱の銀の彫刻が震えながらもとの位置へゆっくりと戻っていった。
郡司は銀盤をもう回せなかった。
彼の盤の上で数字の刻みが青白く一度燃え上がり次の瞬間には鈍い灰色に戻った。盤の中央で銀の針が小刻みに震えそして止まった。郡司は石の台座の上で両膝をつき銀盤を石の床に落とした。盤は鈍い音を立てて半分に割れた。
透はその音を聞きながらゆっくり台座へ歩み寄った。
歩み寄りながら彼の頭のなかでひとつだけ整理がついた。
郡司を殺す気はない。
ここで彼を殺してしまえばこの世界の歪みは閉じても透の中の歪みは閉じない。透の中の歪みとは六年間返せなかった声、嗤われ続けて飲み込んだ言葉、父の煙草の匂いの記憶、ファルナの傷の薄紅の線、それらすべての記録のことだった。記録は殺しては駄目だった。記録は読み続けるためにある。郡司もまた一人の記録者だ。記録者を殺す権利は誰にもない。船員はそう教わってきた。
郡司は顔を上げた。
「東雲」
「はい」
「俺だって本当は毎日きちんと書きたかった」
その声はずっと小さかった。
透はしばらく彼を見下ろした。
それからしゃがみ自分の航海日誌の真ん中の頁を破って彼の前に置いた。頁の罫線はまだきれいだった。
「書けばいい」と透は言った。「いまから書けばいい」
郡司はその頁を両手で持ち上げた。
彼の指は震えていた。ちょうど最初の夜のブリッジで透の鉛筆の芯が三度折れたときのように。
郡司は震える手で胸ポケットから自分の鉛筆を取り出した。鉛筆の角は長く使い込まれて丸まっていた。それは彼が二十年前に新人の頃から使い続けてきた鉛筆だった。彼は手書きを捨てたあとも鉛筆だけは捨てていなかった。透はその鉛筆を見て一度だけ深く息を吐いた。鉛筆を捨てない限りこの男はどこかでまだ書ける。書ける限り赦せる。船員の赦しの基準はだいたいそれだ。
四隅の柱の光がゆっくり白から透明へ透明から空気へと戻った。
世界の歪みはその夜ほぼ完全に閉じた。
地上では辺境伯軍の歩兵が止まった魔王軍を圧倒していた。魔王自身の姿はもう形を保てなかった。魔王はもともとこの世界の住人ではなく郡司の星位改竄魔法によって繋ぎ止められていた仮の存在だった。錨地が閉じれば仮の存在は消える。煙のように消える。残るのは石の床と乾いた血の跡と地上の兵士たちの長い息の音だけだった。
透とファルナは台座の上で互いの肩を軽く寄せた。
ファルナは左腕の包帯のまま長く息を吐いた。
彼女の吐く息は白くはならなかった。
地下はまだほんの少しだけ温かかった。
郡司は破られた頁の上で右手に鉛筆を持ったまま動かなかった。書きたいと思ったが何を書けばいいのか分からない様子だった。透は彼の隣にしゃがみゆっくり言った。
「今日の日付と時刻と現在地でいいです。それから気圧の値。ここは地下だから推定でいい」
郡司は何度か頷いた。
彼の鉛筆の先がようやく頁の罫線に触れた。
その動きは緩慢だったが確かに書くという動作だった。
透はその動作を見届けてからファルナのほうに身体を向け直した。
「終わったね」と彼女は言った。
「終わった」
「あなたの世界の通路は半年に一度開く。次は」
「明日の満月の夜三刻」
「知ってた」
「知ってた」
二人はもう何も言わずただ互いの肩を寄せたまま天井の暗がりを見た。天井の石の隙間から一筋の光が差し込み始めていた。地上の夜明けの光だった。光は錨地の閉じた台座の上に細く伸び鉛筆を握ったままの郡司の右手の甲をうっすらと照らした。
透はその光景を一生忘れないだろうと思った。
忘れないという作法を彼はもう身につけていた。
郡司は最後まで顔を上げなかった。
彼の鉛筆の先は破られた頁の罫線の上をゆっくりと進みやがて頁の中央あたりで止まった。書きかけの一行はこうだった。「○○時○○分、地下祭壇、気圧推定」。彼は数字を入れられなかった。数字を入れるには彼の中にもう一度書く者としての確信が要った。確信がまだ戻っていなかった。透はそれを責めなかった。確信は一日で戻るものではない。書く者は確信を取り戻すまでに何年もかかる。彼にもそれは分かっていた。
透は鉛筆を一本だけ郡司の足元に置いた。
自分の予備の鉛筆ではなくファルナから渡された新しい一本だった。
「これを使ってください」
郡司は声を出さなかった。
ただ右手の指先が一度だけわずかに動いた。動いた方向は鉛筆のほうだった。指は鉛筆の角を触りそしてゆっくり離れた。離れたあと彼の指は再び破られた頁の上に戻った。
それで十分だった。




