第二十章 別れ
戦勝の酒も勲章の重みも彼の鉛筆の握りごこちには敵わなかった。
ナクトル古城が陥落した三日後辺境伯は北辺の都市カラトスで戦勝の宴を開いた。
大広間には騎士、参謀、神官、商人、町の名士たちそれと戦勝に貢献した者全員が招かれていた。長机には焼いた羊、根菜の煮込み、塩漬けの魚、白いパン、それと辺境特産の蜂蜜酒の樽が並んでいた。蜂蜜酒の樽は六樽ある。樽の蓋の縁に細かい蜜蝋の封がしてあり開ける前にひとつずつ司祭が祈祷を捧げる儀礼があった。儀礼が終わるたびに広間には小さな歓声が湧き杯がぶつかる軽い音が壁から壁へ反響した。
透は末席に座らされた。
末席というのは表向きで実際は辺境伯のすぐ右隣だった。辺境伯はそれを「上席に座らせるとお前が落ち着かんからな」と笑って弁解した。透は静かに杯を受けた。蜂蜜酒は甘く度数は思いの外に強かった。船員は度数の強い酒に弱くない。だがその夜の彼は二杯目を半分残した。残したのは酔いを避けたためではなかった。明日の夜のための判断力を残しておく必要があったからだった。
ファルナは座らなかった。
彼女は宴の途中でそっと広間を抜け出した。藍色の長衣の裾が大広間の樫の床を擦りながら出口の扉の影に消えるのを透は目の端で追った。すぐには追わなかった。三人の貴族の挨拶を受け短く答えそれから杯を伏せて立ち上がった。辺境伯は何も言わなかった。ただ一度だけ右の手のひらを軽く卓上で打った。「行ってよい」の合図だった。
城の屋上に出ると夜は深く雲は薄かった。
星はいつものように彼女の長いまつ毛の上で揺れていた。ファルナは石の手すりに肘をつき夜空を見上げていた。屋上の風は地上より少し冷たかった。彼女の藍色の長衣の襟がわずかに翻り肩のあたりに薄い影を落としていた。
「ねえシェルがちゃんともとの位置に戻ってる」
透は隣に立った。彼の制服はもうすっかり擦れていた。袖口は黒ずみ襟の縫い目はほつれていた。それでも紺色の地はまだ紺色のままだった。
「戻ってる」と彼は答えた。
「私の二年分のノートは半分以上灰になった」
「灰になっても君の頭のなかにはある」
「そう」
二人はしばらく黙った。
遠くで城下の屋根の煙突から薄い煙が立ち上っていた。煙の方向は西へ向かう。西の風が吹いている。風は弱い。夜半までこのまま吹くだろう。透の頭のなかでは無意識にそうした観測値が走っていた。船員の癖だった。風向と気温と湿度。彼の体はいつもこの三つを背景音楽のように測定していた。
ファルナはゆっくりこう言った。
「歪みの中心点の真上の空に半年に一度別の世界への通路が開く。あなたの世界への通路」
透は息を止めた。
「いつ開く」
「次の満月の夜三刻」
「次の満月は」
「明日」
ファルナはそう言ってようやくこちらを見た。
彼女の左腕の包帯はもう取れていた。傷は塞がっていたが跡は残っていた。長い薄い薄紅の線として。彼女はその線を制服の下に隠さない。これは記録だから。透は彼女のその一言を思い出した。記録は隠してはいけない。今夜彼女の表情にも記録があった。隠さない記録。透にも見える記録。
「あなた帰るでしょう」
彼女は問いの形ではなく確認の形で言った。
透は答えなかった。
代わりにしばらく彼女の目を見ていた。彼女の目のなかには彼自身が知らない別の光があった。それは星の光ではなかった。星の光はずっと冷たい。彼女の目の光は温かかった。それでいて止まっていた。止まっているのに温かい光があり得るということを彼はこの夜初めて知った。
彼は自分の航海日誌を懐から取り出してファルナの掌の上にそっと置いた。
「これは」
「君の次の二年分のノートに線を引くための鉛筆と一緒に渡す」
彼は懐から鉛筆をもう一本取り出した。芯がまだ十分に長い鉛筆だった。
「これは」
「君の星のかわりじゃない。君の手のかわりだ。君の手はまだ完全には元に戻らないと医者が言ってた。だから半分だけでも僕の手を貸す」
ファルナは表紙の角の擦り切れを指でなぞった。指の動きは観測者の動きだった。
「線がずれたら」
「次の観測で自分で修正する」
「自分で」
「自分で」
ファルナは小さく頷いてそれから藍色の長衣の懐から薄茶色の押し花を一輪取り出した。
ヴェルンの春に咲く北辺の野の小さな花だった。乾いてもう香りはない。それでも花弁の薄い葉脈がくっきりと残っていた。透が彼女と出会ったあの塔の屋上で初めて見た花だった。
「これは」
「あなたの世界の海図の余白にピンしてほしい」
「海図の」
「あなたの星のかわり」
透は両手でそれを受け取った。
花は軽かった。航海日誌よりずっと軽かった。
二人はそれ以上何も言わなかった。
ただもう一度肩を軽く寄せた。
夜風が二人のあいだを抜けた。遠くの森で夜鳥が一度だけ鳴いた。
ファルナはしばらく黙ってからこう言った。
「ねえ東雲」
「うん」
「私はあなたの帰りを止めない。止めたら船員の作法に外れるって分かってる」
「うん」
「でも私はあなたの帰りを忘れない」
「うん」
「そしてあなたが帰ったあとも私は星を測りつづける。あなたの世界からは見えない星を私が測りつづける。あなたの世界の海図の上にあなたが押し花を挟むようにこちらの世界の私のノートにあなたの鉛筆の跡が残る。あなたが書いた線が私のノートに残るかぎり私たちはどこか遠くで仕事を続けている同僚だ」
透は何かを言おうとした。
言葉が喉の手前で止まった。
代わりに彼は深く頷いた。深く頷きながら彼の右手はファルナの右手の薄い指のうえに自然に重なった。指は冷たくも熱くもなかった。書く者の指の温度だった。透はその温度を一分だけ記憶した。一分以上は記憶しないでおこうと決めた。記憶しすぎれば帰れなくなる。船員はそれを知っていた。
翌晩満月の三刻ナクトル古城の地下祭壇の上に青白い光柱がもう一度立った。
透はその光柱の真下にひとりで立っていた。
ファルナは塔の屋上からその光柱を遠くから見ていた。彼女は手を振らなかった。
船乗りの作法だ。
船が出るとき岸壁の者は手を振らない。
手を振ると戻ってこられなくなる。
透は光柱に呑まれる前の最後の瞬間に空を見上げた。空にはシェルがあった。本来あるべき位置に戻ったシェル。透の知らないこの世界の北の基準星。ファルナと彼が二年と半年ぶんの累積ずれを計算した星。
「シェル、現在位置、確認」
透は誰にも聞こえない声でそう呟いた。
呟きながら光柱は彼の体に届いた。
冷たくなかった。むしろ十二月の朝に湯気の立つ味噌汁の表面を触ったときのような懐かしい温度だった。




