第二十一章 帰還
彼は自分の手の中で鉛筆が震えているのに気づいた。船の振動だった。
ブリッジ。
北太平洋。
風力八。波高六メートル。
透は窓の外を見ていた。
光柱はもうなかった。
視程は戻っていた。
遠くにかすかな船影がレーダーの輝点としてふたたび現れていた。CPAは三マイル。報告の必要はない。
時計は午前一時四十四分だった。
彼が呑まれた瞬間から二分しか経っていなかった。
操舵手がけげんそうに彼を見た。
「東雲二航士、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
声は思ったよりも落ち着いていた。階段を上る足音がした。昇橋灯がついて船長がブリッジに姿を現した。船長は寡黙な六十代の男で寝間着のうえに紺色のジャケットだけを羽織っていた。彼は窓の外をひと目見てそれから透のほうを見た。
「東雲、CPA二マイル切りそうな船は」
「ありません船長」
「気圧の値、最後はいくつだ」
「九八三」
「次の観測時刻」
「あと十二分です」
船長は短く頷いた。
彼は奥のテーブルに歩み寄り夜間命令ノートを開き自分の筆跡で書いた一行をもう一度確かめた。「視程不良時、近接他船を察知したらば直ちに船長へ報告すること」。彼はそのあと何ごともなかったように自分の居室へ降りていった。降りていく階段の足音が一段ずつ確かめるように聞こえた。船長の靴音は新人時代の頃から透の耳に染み込んでいる音だった。その音が変わっていないということは元の世界はちゃんと元の世界のままだということだった。
透はようやく自分の手の中の鉛筆を見た。
鉛筆は震えていた。
いや震えていたのは船の振動だった。
彼は航海日誌を開いた。
最後の頁の罫線。書きかけの「九八三」という気圧の値の右側。そこに書きかけだったはずの数字の次の行がすでに書かれていた。文字は彼の知らない筆跡だった。
「北緯不明、東経不明、観測者不明、星位確認」
たったそれだけの一行だった。
透はその筆跡をしばらく見つめた。
筆跡はファルナのそれとよく似ていた。いや似ているというより彼女のそれと同じだった。彼の喉の奥がひどく熱くなった。文字の終わりの「確認」の二文字の右下に小さな点が一つ打たれていた。観測終了の合図の点。船員のあいだでも観測者のあいだでも書き慣れた者の点だった。点は鉛筆の粉が薄く盛り上がっており指で触ると粒子がほんのわずかに動いた。粉はまだ新しかった。書かれてから一日も経っていない粉だった。
彼は鉛筆を握り直しその次の行に自分の筆跡でこう書き入れた。
「観測者東雲透。星位確認。クロスベアリングにより本船位、正常」
航海日誌の頁を彼は静かに閉じた。
窓の外北太平洋の空には雲が薄くなり始めていた。雲の隙間から最初の星が一つだけ控えめに見えた。その星は彼の知っている北極星でも北斗の柄でもなかった。ヴェルンの塔の屋上から彼がファルナの隣で二年分の累積ずれを計算したあの基準星「シェル」と同じ位置に見えた。
もちろん北太平洋からその星は見えるはずがなかった。
だが彼には見えた。
彼はそれを誰にも報告しなかった。
ただ自分の航海日誌の頁をもう一度開き直しその星の位置をいつものとおりに書き留めた。書き留めるという行為がここでも彼を彼の輪郭に戻した。書きながら彼は自分の右手の中指の第二関節を見た。そこには船員時代から続く小さな鉛筆だこがあった。鉛筆だこの位置はわずかに移動していた。長く別の握り方をしていた指の癖だった。ヴェルンの塔の書斎でファルナの隣に座って書いていたときの握り方。船のブリッジで揺れに耐えるための握り方とは少しだけ違う握り方。
その違いを彼は誰にも説明できなかった。
説明する必要もなかった。
二マイル先の他船は通過していった。
CPAは三マイルから五マイルに開いた。
報告の必要はなかった。
午前二時。気象衛星のデータが更新された。低気圧の中心はすでに玄洋丸の北西を抜けたらしい。気圧の値はゆっくり上昇に転じていた。風向は北北東のまま。波高は徐々に下がっていく見込みだった。
透はその数字を航海日誌に書き込んだ。
書き込みながらブリッジの窓の外を見るともう一度雲が薄くなり最初に見えた星の隣にもう一つ別の星が見えた。彼の知らない星だった。地球から見えるすべての星座に当てはまらない位置だった。けれども見え方は正常だった。点は丸く揺らがない。本物の光は揺らがない。擬光ではない。
彼は短く息を吸い込みそれから航海日誌のもう一行下にこう書き入れた。
「未識別恒星、方位観測継続」
書き終えて鉛筆の先を耳の上に挟んだ。
その瞬間ブリッジに次のミッドナイト・ウォッチの当直士官が上がってくる足音がした。透はいつもどおりに引き継ぎを行った。「現針路二百四十度、速力十六ノット、付近に他船一、CPA五マイル、低気圧通過、視程徐々に回復」。引き継ぎの言葉は短くいつもの順序だった。当直士官はそれをもう一度繰り返してから航海日誌に署名した。透も署名した。署名のあとの空白の行に彼はもう一文だけ書き入れた。
「観測者交代。なお、観測は引き継ぎ後も継続する」
文字は彼の筆跡だったが彼の知らない筆跡でもあった。船員時代より少し丸くなった字。塔の書斎で半年書き続けて変わった字。引き継ぎ士官はその一行に気づかなかった。気づかなくてよかった。
ブリッジを降りる階段で透は最後にもう一度窓の外を振り返った。
窓の向こうにあの二つの未識別の星はもう見えなかった。雲が再び厚くなり始めていた。だが彼の中ではあの二つの星は確かに見えた位置にあり続けた。あの星は見える限り見続けるしかない。見続ければ書ける。書ければ残る。残れば誰かが読む。読まれなくてもよい。書く行為そのものが観測者を観測者にしておく。船員にも観測者にもこの作法は同じだった。
彼は階段を一段ずつ降りた。船長の靴音と同じ間隔で降りた。それは六年間繰り返されてきた間隔だった。彼の足はその間隔を覚えていた。船員の体は階段の段数と踏みしろの差分を頭ではなく足の裏で記憶している。そして二段下りるごとに一度息を吐く。吐きながら頭の中の数字を整理する。観測値の余韻。明日の予定。次のヌーンレポートのテンプレート。それから半年前に出会った塔の屋上の風の温度。
全部足の裏で覚えている。
彼は自室の扉の前で一度だけ深く息を吸い扉を開けた。船員の自室はどの船でも似ている。背の高くないベッド。狭い机。床に固定された椅子。机の脇の引き出しの一段目に彼の私物が入っていた。私物のいちばん上に彼の私的な航海日誌の表紙の一冊が重ねてあった。彼はそれを取り出し机に置きそしてその上に懐から取り出した薄茶色の押し花を、そっと載せた。
花は軽かった。
花の重さがほとんど無に等しいということが彼にはありがたかった。重さがないからこそそれは長く残る。船員にとって長く残るものはたいてい軽いものだ。重いものは沈む。軽いものは漂う。漂うものは波のあいだで生き残る。
透は床に固定された椅子に腰を下ろし制服のジャケットを脱いだ。ジャケットの内ポケットの底にもう一冊小さなノートが入っていた。彼はそれを取り出して机の上の私物のいちばん上に重ねた。ファルナのノートの五冊のうちの一冊だった。表紙の角が擦り切れ背表紙に彼女の文字で月と年が書かれていた。残り四冊は出航前に自宅の本棚に置いてあるはずだった。あるはずだったというのは奇妙な言い方だが彼の記憶のなかでは確かに置いてあった。記憶のなかにある事実はたいてい事実だった。
彼は自室の電灯を消した。
暗いほうが眠れる。
暗いほうが二つの世界の境目が曖昧になる。曖昧なほうがどちらの世界もどちらの世界として両方残る。船員にとってそれが理想だった。
彼は目を閉じた。
目を閉じる前にもう一度ファルナの押し花の重さを指の腹で確かめた。
軽さは確かにそこにあった。
それで十分だった。
眠る前にもうひとつだけ彼は思い出した。
光柱に呑まれる直前にファルナが塔の屋上から手を振らなかったこと。あれは作法の遵守だった。だが作法の遵守は冷たい行為ではなかった。冷たい行為と熱い行為のあいだに作法という第三の場所がある。第三の場所で彼女は手を振らずに彼を送り出した。第三の場所は二人の合意の場所だった。透は彼女との合意を確かに持って帰ってきた。合意は持ち運べる。重さはない。だが確かにある。船員の手荷物の中でもっとも軽くもっとも確かなものだった。彼は薄く息を吐いた。息は静かに枕に沈んだ。沈んだ息はそこに留まった。留まった息の場所がその夜の彼の帰投地点だった。




