表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/22

 第二十二章 終わりの光景

本社の会議室で海務監督・郡司岳人は十五分間ずっと黙っていた。


 半年が過ぎた。


 玄洋丸は北太平洋から東南アジアの航路に切り替わり透は予定どおり二等航海士から一等航海士へ昇格した。階級章は太い金の三本線になり当直時間も深夜から早朝の時間帯から朝と夕方の時間帯に変わった。当直時間が変わったというのは船員にとってかなり大きな変化だった。生活のリズムの根幹が変わる。眠る時刻が変わり食事の時刻が変わり風呂に入る時刻が変わる。新しい時刻の生活に体が慣れるまでに二週間かかった。慣れたあと透はようやく自分が以前よりも明るい時間帯に多く起きていることに気づいた。日中の太陽を見る量が増えた。新人時代から続けてきた地味な深夜当直の世界から彼はわずかに距離を取った。


 半年前と比べて彼の手書きの書式は社内でゆっくり広がっていた。


 最初に取り入れたのはヴェルンの塔の書斎で完成させた書式――出発地と帰投地点を先に決め中継点を三つ以上設け各点で三本の方位を取り消費と残量と所要時間を必ず数字で記すフォーマット――を元の世界の航海計画書に逆翻訳したものだった。社内の若手の航海士たちは最初は煩雑だと不満を漏らしていたが半年たつ頃には誰もが透の書式に基づいた航海計画書を書くようになった。手書きの書式が再評価された理由のひとつは皮肉なことに郡司岳人本人が陣頭指揮を執ったからである。


 昇格してから初めての本社訪問の日彼は会議室の椅子に座った。


 会議室の長机の正面に郡司岳人がいた。


 郡司は半年前よりも痩せていた。あの嵐の夜のあと彼は数日原因不明の高熱で休んでいた。復帰してからも以前のような声の大きさは彼からすっかり消えていた。机の脇に置かれた彼の鞄の口が少し開いており中から手書きのメモ用紙が一枚だけはみ出していた。罫線の入った薄い紙にHB硬度の鉛筆で書かれた走り書き。透はその走り書きの筆跡を遠目で確かめた。郡司の筆跡だった。十年前と同じ几帳面な角度の文字。


 会議の冒頭郡司は透の手書きの航海日誌のコピーを机の上に置いた。彼は十五分間ずっと黙っていた。他の参加者たちはぽつぽつ別の議題を進めた。郡司はそれらにもほとんど口を挟まなかった。


 会議が終わったあと廊下で郡司が透に声をかけた。


 「東雲」


 「はい」


 「お前最近書き方変わったな」


 透は答えた。


 「特に変えてはいません」


 「いや」と郡司は言った。「変わった」


 二人はしばらく廊下の窓の外を見た。窓の外には本社の植え込みのつげの低木とその向こうに東京湾の青い水面が薄く見えていた。コンテナを積んだ貨物船の影が水平線の隅に小さく見えた。船員の目は遠くを見るために訓練されている。遠くを見るとき船員は焦点を瞳の手前に置く癖がある。手前に焦点を置けば遠くの影は逆にくっきり見える。逆説的な視力の使い方だった。透は無意識にその癖で東京湾の水面を見ていた。


 郡司はようやくこう言った。


 「お前の書式フォーマット化したい。社内標準にしたい」


 透は驚かなかった。


 ただ低く頷いた。


 「やりましょう」


 郡司は背を向けかけてもう一度止まった。


 「東雲ひとつ聞いていいか」


 「はい」


 「俺はあのとき何かを忘れたような気がするんだ。半年前お前の船が嵐に遭った夜からずっと。何だか分かるか」


 透はしばらく考えてから答えた。


 「忘れたままでいいと思います」


 郡司の目がほんの一瞬暗くなった。


 「そうか」


 「ただ忘れたものは誰かが覚えています。だから心配しなくていいです」


 郡司はそれ以上何も言わなかった。


 彼は背を向けゆっくり廊下を歩いて行った。透はその背中をしばらく見送った。郡司の歩き方は半年前と少しだけ変わっていた。歩幅が小さくなり右肩が以前よりわずかに下がっていた。船員の歩き方ではなくなりかけていた。だが完全に陸の人間になりきれない歩き方でもあった。半分船員で半分陸の人間。それでも書く者の歩幅は失っていないと透の目は読み取った。鉛筆を捨てない限り船員は完全に陸の人間になりきらない。郡司の鉛筆はあの祭壇の床で破られた頁の上にまだ載っていたはずだった。


 その夜透は港町の自分のアパートに帰った。


 部屋は出航前と何も変わっていなかった。窓際の小さな机。古い航海士の制服。父からもらったつるりと磨かれたコンパスの真鍮の枠。それと本棚の上に置きっぱなしの何冊もの古い航海日誌。


 彼はまず台所に立った。


 冷蔵庫の中には何もなかった。出航前にすべて空にした。電気ポットだけが薄く湯気を立てていた。湯気は朝のうちに沸かしたお湯の名残だった。透は缶詰の鮭の蓋を開けて皿に取り分けインスタントの味噌汁を作り三日ぶりの本物の食事を取った。三日ぶりというのは妙な言い方だった。船員にとって食事はいつも本物だった。だがこの夜の味噌汁の最初の一口は彼に十二月の朝の懐かしい温度を思い出させた。光柱に呑まれた瞬間に感じた温度。あれは味噌汁の表面の温度だった。彼はそれを初めて誰にともなく口に出して言った。


 「思い出した」


 誰にも答えはなかった。


 答えはなかったが彼は薄く笑った。


 食事を終えた彼は出窓の前に座りいちばん古い航海日誌を棚から取り出した。最後の頁に見覚えのある筆跡で新しい一行が書き加えられていた。


 「観測者東雲透。星位確認」


 その下に彼自身の手でもう一行書き入れた。


 「夜間命令――視界不良時近接物標との接近を察知したらば必ず誰かに知らせること。私はこの命令をこれからも遵守する」


 書き終えた頁の余白に彼は薄茶色の押し花をそっと挟んだ。


 ヴェルンの春に咲く北辺の野の小さな花。


 乾いてもう香りはない。


 だが軽さだけは彼が受け取ったときとまったく同じだった。


 彼はその頁の押し花の隣にもう一行小さな字でこう書き入れた。


 「観測の継続を確認。記録の継続を確認。観測者二名」


 観測者二名。


 二名のうち一名はもう半年前から別の世界の塔の屋上にいる。


 別の世界の塔の屋上で彼女は今夜も基準星シェルの位置を測っているはずだった。彼女の左腕の薄紅の線はまだ消えていないはずだった。彼女の鉛筆の握り方はもう完全に波のなかでも書ける握り方になっているはずだった。彼女のノートは初めて読者を持ったはずだった――彼女自身という読者を。書く者は自分が自分の読者になった瞬間に長い孤独から抜け出す。透もまた同じだった。彼の航海日誌の頁の押し花は彼自身が初めて自分の記録に読者を持ったことの証拠だった。


 彼は窓の外の港の岸壁の街灯を見た。


 街灯は夜の海面に長く揺れていた。揺れの向こうに彼はもう一度会えないはずの誰かが塔の屋上で自分のノートを開いている景色をひとり見た。


 夜風が東京湾からわずかに部屋に届いた。


 遠くで貨物船の汽笛が低く二度鳴った。


 彼はそれを合図のように聞いた。


 航海日誌を彼は静かに閉じた。


 閉じたまましばらく表紙の角の擦り切れを指でなぞった。


 その指はもう震えなかった。


 翌朝彼は港の岸壁を歩いた。


 その日玄洋丸は次の航海のために停泊中だった。透の出港は二日後。あいだの二日を彼は陸で過ごす。陸での過ごし方は新人の頃から変わらない。父の墓に行く。母の家に立ち寄る。古い船員仲間の喫茶店で一杯のコーヒーを飲む。それだけだった。


 父の墓は港町の北の小さな丘の上にあった。


 丘の上からは港の全景が見える。墓石は黒い御影石で名前と没年だけが彫られている。透は線香に火を点け新しい花瓶の水を替え花を活けた。花は彼が町の花屋で選んだ青と白の小さな花束だった。父は派手な花を好まない人だった。香りの強い花も好まなかった。だから透は香りの薄い小さな花を選んだ。


 彼は墓の前で長く立っていた。


 長く立つことが習慣だった。新人の頃から続けてきた習慣で帰港のたびに必ずこの丘に上る。父は寡黙な人だったから彼も墓の前で寡黙だった。何も話さない代わりに彼は近況だけは心の中で報告する。今回の航海はこういう海域でこういう貨物を積みこういう天候だった。事故はなく日誌は揃って書けた。新人の指導は順調だった。船長の信頼は厚かった。それだけだった。


 今回も同じように報告した。


 だが今回は最後にひとつだけ違うことを心の中で言った。


 ――父さん、私の航海日誌は半年前から二人で書いています。


 風が丘の上を抜けた。


 風は港から内陸へ吹いていた。風の方向は陸風だ。陸が冷えてその上の空気が海へ吹き出す朝の風。船員はその風を「オフショアブリーズ」と呼ぶ。船が港から出るのを助ける風。父はその風が好きな人だった。彼は若い頃ヨットを操縦するのが趣味でオフショアブリーズの吹く朝に湾内を一人で帆走するのが日課だった。透が幼い頃父はその時間だけは家を空けた。空けたが必ず昼までには戻った。戻ってきた父の体には潮の匂いが染みついていた。


 透はその匂いを今この瞬間も鼻の奥に思い出した。


 潮の匂いと煙草の匂いと薄い汗の匂い。


 全部別々の引き出しに記憶してある。


 彼は墓の前で深く一礼してから丘を降りた。


 丘を降りながら下の海面に小さな白い帆が三つ見えた。漁船ではない。ヨットだった。日曜の朝のセーラーたちが湾の中で短い帆走をしている。透は遠目にその三つの帆を眺めた。風向はオフショア。三つの帆は南から北へ走っていた。三つの帆の交点を頭の中で計算してみた。三本の線。三本の線の交わる点。クロスベアリングの基礎。彼の頭はいつでもこの計算を背景音楽のように走らせている。


 その日の昼母の家に立ち寄った。


 母は彼が幼い頃から港町の郊外の小さな一軒家で暮らしている。父の死後も母はその家を動かなかった。家には今でも父の靴や父の作業着が玄関と物干しに残っている。母はそれらを片付けない。「父が帰ってくるかもしれないから」と母は冗談を言うが透はそれが冗談ではないことを知っている。船員の家族は港町でみんなそう生きている。事故で失った夫や息子の靴を玄関に置きっぱなしにする家庭はこの町に多い。


 母は六十八歳。短い髪。眼鏡。声は低い。彼女は透を見るといつもどおりに「お帰り」と言いそれから台所に立って湯を沸かした。


 透は居間の畳に腰を下ろし母が出してきた湯飲みのお茶を一口飲んだ。


 お茶は番茶だった。父も母も番茶を好んだ。透も番茶を好む。家の中の好みは少しずつ似てくる。船員にとって家の中の好みは唯一の地理的固定点だった。世界中のどんな港でも自分の家の番茶の味だけは変わらない。


 「透」と母は言った。「あんた半年前に何かあったでしょう」


 透は湯飲みを置いた。


 「なぜ」


 「いつもの航海から帰ってきた顔と違うから」


 「違う」


 「うん。少しだけ。けど大きく違う」


 透は答えなかった。


 代わりに居間の隅の本棚の一段目を指さした。本棚の一段目には彼が新人の頃から書いてきた古い私的な航海日誌が五冊並んでいた。母はその五冊の隣に最近もう一冊増えたことに気づいているかどうか試したかった。


 「気づいてた」と母は静かに言った。「あんたが帰ってきた夜本棚の前で長く立ってたから」


 「そう」


 「中身は見てない。見ても私には読めないでしょう」


 「読めないでしょうね」


 母はお茶を一口だけすすりそれから穏やかに笑った。


 「でもあの新しい一冊の表紙の擦り切れ方が父さんの古い日誌と少しだけ似てた。手の脂の付き方が」


 透はその一言で一度息を止めた。母は何も知らない。だが母の観察は常に正確だった。彼女は港町の船員の妻として三十年以上家の中の品々を観察してきた。観察は彼女の生活の基本だった。観察の精度は二等航海士の倍は超えていただろうと透は思った。


 「父さんと似てるって言ったら怒る」と母は言った。


 「怒らない」


 「あんたの父さんはあんたが思う以上にあんたを誇りにしてた」


 「知ってる」


 「あんたが二等航海士になった日父さんは亡くなる二年前だったけどあの日いちばん長く煙草を吸ってた。家のベランダで。私は数えてた。十二本」


 「十二本」


 「そう。あんたが船員になるって決めた日に父さんが約束したの。あんたが二等航海士になれた日には自分も煙草を一日にいちばん多く吸う日にすると。だから十二本」


 透は黙った。


 彼の口の中に番茶の渋みが薄く広がった。


 「父さんはあなたが一等航海士になる日まで生きたかった」と母は言った。「だから私はその日を代わりに見ておきたかった。先月昇格の通知をもらった日私はベランダで一人でお茶を飲んだ。煙草は吸えないからお茶を十二杯飲んだ」


 「十二杯」


 「お腹が冷えた」


 母はそう言ってもう一度穏やかに笑った。


 透も薄く笑った。笑いながら胸の奥に温かい湯気のようなものが上がってきた。光柱の温度。味噌汁の表面の温度。母のお茶の温度。父の煙草の温度。ファルナの押し花の重さの温度。全部別々の引き出しに分けて記憶していたものがその瞬間ひとつの机の上に並んだ。並べてみると全部同じ温度だった。家の温度だった。家の温度はどの世界でも変わらない。


 夕方家を出るとき母は玄関で透に小さな包みを渡した。


 包みの中には父の古い真鍮のコンパスのケースとその予備の部品がひとつ入っていた。


 「これあげる」


 「父さんのじゃないか」


 「あなたが一等航海士になったから」


 透は包みを受け取った。コンパスのケースは古いが手入れがされていた。母が父の死後も毎月オイルを塗り続けてきたのだろう。表面はくすんでいるが内側の金具は光沢を保っていた。船員にとってコンパスは古ければ古いほど信頼できる。新しいコンパスは振れが残っているが古いコンパスは慣性が小さくなって安定する。父はそれを知っていた。母も知っていた。


 「ありがとう」と透は言った。


 母は何も言わずただ手を一度だけ軽く挙げた。手を振らなかった。


 港町の作法だった。


 透は振り返らずに歩いた。歩きながら包みを胸ポケットに収めた。胸ポケットには彼の鉛筆と航海日誌があり今度はその隣に父のコンパスケースが収まった。三つの物の重さは妙にちょうどよかった。船員の胸ポケットはこの三つでいちばん安定する。


 二日後玄洋丸は次の航海のために出港した。


 透は一等航海士として船長の隣に立ち出港作業の指揮を執った。タグボートの位置確認、係留索の解放、機関の最低出力での前進、岸壁との離隔距離の測定。すべての作業が手順どおりに進んだ。透の声は新人時代より低くなり指示の単位は短くなっていた。短い指示は混乱しない。混乱しない指示は確実に伝わる。


 離岸が完了したあと彼はブリッジの右舷の窓辺に立った。


 岸壁にひとつだけ古い人影が見えた。


 その人影は煙草を吸っていた。


 もちろん父ではない。父はもう八年前に亡くなっている。だが人影の立ち方は父そのものだった。岸壁の同じ場所に立ち背を伸ばし煙草を吸い手を振らない。出港する船を最後まで見送る。透はその人影をしばらく見た。人影は遠ざかるにつれて小さくなりやがて岸壁の影に溶けて見えなくなった。


 彼はその人影に向かって手を振らなかった。


 出港時は陸を見ない。


 でも今日はほんの少しだけ陸を見た。


 ほんの少しだけ作法を破ったが船員の作法は完全主義ではない。少しの揺らぎは許される。揺らがない作法は最後には折れる。折れる前に少し揺らす。それで作法は長く続く。父もそうしていた。彼が出港のたびに振り返らないという作法は実は完全には守られていなかった。新人時代に一度だけ父が透の船を岸壁から長く見送ったあとに振り返ったのを透は遠くから目撃したことがある。後ろから家路に着く父の背中。少しだけ振り返り少しだけ歩を緩めそれからまた歩き出した背中。あれが父の本当の作法だった。揺らぎを許す作法。


 ブリッジの後方で操舵手が新しい針路を読み上げた。


 「針路二百四十度、速力六ノット、低速前進」


 透は短く頷いた。


 彼はもう一度航海日誌の最初の頁を開いた。新しい航海のための新しい頁。日付。時刻。風向。気圧。視程。全部書き入れた。最後にこの航海の出発時の所在地と帰投地点を書き込んだ。


 出発地、本邦東京港。


 帰投地点、本邦東京港。


 ふたつとも同じ場所だった。船員にとって帰投地点は出発地と一致することがいちばん幸運な航海だった。出発地と帰投地点が一致しない航海は事故だった。透の航海は事故ではなかった。今回も無事に帰ってくる。それを彼は航海日誌の最初の頁に書きながら自分に約束した。


 書き終えてから彼は鉛筆を耳の上に挟みブリッジの窓の外を見た。


 北の空には薄い雲が広がっていた。雲のあいだに一つだけ星が見えた。彼の知らない星ではなかった。今度は普通の北極星だった。地球の北極星。船員にとっていちばん古い友達。


 透はその星に向かって短く頷いた。


 頷きながら胸の奥で別の星の名前を一度だけ呼んだ。


 シェル。


 遠い世界の基準星。


 彼女の星。


 彼の星。


 二人の星。


 その夜遅く彼は自分の自室の机で航海日誌を開き右端の余白に小さな字でこう書き入れた。


 「観測継続。記録継続。観測者二名。距離不明。方位、内側」


 書き終えて鉛筆の先を耳の上に挟んだ。


 窓の外を貨物船の汽笛が低く一度鳴った。


 それを合図に彼は航海日誌を閉じた。


 閉じた表紙の角の擦り切れた部分を指で短くなぞった。


 その指はもう一度も震えなかった。


 ただ確かに彼自身の指だった。


 彼自身の指はファルナの指の温度をまだ覚えていた。


 覚えているということが彼の唯一の証拠だった。


 証拠を持っている者は迷子にならない。


 迷子にならない者は明日もまた書く。


 彼は明日も書く者だった。


 書き続ける限り彼の航海日誌の余白の一行は必ず誰かの手で埋まる。


 その手は遠い世界の塔の屋上の手かもしれない。


 その手は港町の岸壁の母の手かもしれない。


 その手は明日の本社の郡司の手かもしれない。


 手は遠くにあっても書式さえ揃っていれば必ず線が交わる。


 クロスベアリングの原理だった。


 彼が世界のどこにいても観測者は決して独りではなかった。



 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ