第八章 ヌーンレポート
船員時代の癖で彼は毎日正午にその日の自分の位置と消費量を書き出した。誰にも提出する宛先はなかった。
ヴェルンの町はひと月で透の地図を欲しがるようになった。
最初に来たのは商人の組合だった。北の鉱山町への新しい道筋の測量を依頼した。次に来たのは教会で修道院の鐘楼の位置の修正。それから領主、辺境伯の代官、隣の村の村長。
透はすべての依頼に同じ書式で応えた。
まず出発地と帰投地点を決め中継点を三つ以上設けそれぞれの中継点で三本の方位を取って自分の位置を確定し地図に線で結ぶ。所要日数、消費食料、想定される危険箇所、別ルート案。書式は船員時代の航海計画書をそのまま流用したものだったがこの世界の依頼者にとってこれほど明瞭な調査報告は初めて見るものだったらしい。代官は最初の報告書を受け取ったとき自分の手で表紙の角を撫でながら「ほう」と一度だけ呟いた。透にとってその「ほう」は新人時代に船長から「よし」と言われたのと同じ重みを持った。
報酬は等級どおりに低く抑えてもらった。
目立ちすぎないように。
目立った瞬間に郡司岳人のような人間が湧いて出る。それはどんな世界でも変わらない法則だった。透はその法則を経験で学んでいた。だから彼はギルドの等級をF級のままに保ち報酬の交渉も自分からはしなかった。仕事の良さは紙の上に残せばよい。値段の良さは他人に決めさせればよい。船員はそうやって長く生きる。
彼はそうした働き方をファルナの塔の書斎で続けていた。
毎日正午に彼は航海日誌に自分のその日の所在地と消費した食料、水、銀貨の残量を書きつけた。船員時代の癖だった。これをヌーンレポートと呼ぶ。船員はみな毎日正午に船の位置と燃費と速力を本社に報告する。船はその時刻に一日が改まるからだ。一日が正午に改まるというのは陸の人間には奇妙に聞こえるがこれは航海の太古からの習慣で南中の太陽がもっとも正確に観測できるからである。
ファルナは初めの数日それを横目で見ていた。
ある日彼女も自分のノートの隅に正午の観測値の上書きを始めた。星はもちろん昼間は見えない。だが彼女が記したのは太陽の位置、風向、雲量、それと自分の体調だった。
「真似しないで」と彼女は言ったがすぐに止めた。
「いや真似する」
二人の書式は揃っていった。
ある夕方ギルドからの依頼書の様式が透の見たことのある罫線に変わっていた。イーオが新しく印刷させたのだ。彼は受付の机にその依頼書をしばらく見つめた。
その夜ファルナが塔の書斎で低い声で訊いた。
「ねえあなたの世界では毎日正午に何を書くの」
透はぼんやり答えた。
「ロブ。Remaining On Board。船に残っている燃料の量、水の量、潤滑油の量」
「ロブ」
「あとETA。次の港への到着予定時刻」
「予定。だからずれる」
「ずれを修正するのが二等航海士の仕事だ」
ファルナは少し笑った。
「私たちの仕事も似ているね」
「君のほうが本格的だ」
「本格的って」
「やめないという意味だ。給金も評価もないのに二年やめなかった」
ファルナは机の上で両手を組んだ。指の関節が少し細い。書記の指。彼女は透の言葉をしばらく咀嚼してから低く言った。
「やめなかったのは続けたかったからじゃない。続けていれば誰かに見つかると思ってた」
「誰かに」
「私の数字を読める人」
透は鉛筆を置いた。
窓の外、夜が始まる前の薄い藍色の空に最初の星が一つだけ控えめに灯った。基準星シェル。
ファルナはその星を見上げてから透のほうへ視線を戻した。
「もう見つかった」
「うん」
「だから怖くなった」
「なぜ」
「見つかった後の話は誰にも教わってないから」
透は答えなかった。代わりにファルナの隣に自分の航海日誌を開いて置いた。彼女の本の隣に。二冊のノートが机の上に並ぶと窓辺の藍色の光のなかで罫線がぴたりと揃った。
「見つかった後の話は」と透は言った。「これからふたりで書けばいい」
ファルナはその夜長い沈黙のあとごく短く頷いた。
頷きながら彼女の頬が燭台の光のほうへわずかに傾いた。透は気づかないふりをしてもう一度自分のノートを開き直し正午のヌーンレポートの形式で「ヴェルン、書斎。同居者一名」と書いた。同居者の文字を彼は二度書き直した。最初は「同僚」と書いた。次は「相棒」と書いた。最後に「同居者」に落ち着いた。船員は早すぎる確約を慎む。だが書くという行為自体が確約にもう半歩近づいている。それを彼は自分でも分かっていた。
翌朝彼は早く起きて塔の階段を一段ずつ降りた。
階段を降りる途中で書斎の机の上に置きっぱなしのファルナのノートが目に入った。彼女は朝方早く起きるたちではない。机の上のノートは前夜のままだった。透はノートの背表紙に手を伸ばしかけそしてやめた。書く者の私的なノートを断りなく開けるのは船員の世界でも観測者の世界でも作法に反する。彼は自分のノートだけを胸ポケットに入れ静かに階段を降り続けた。途中の壁に掛かった鯨脂のランプの揺れる光が階段の石壁に薄い影を作っていた。影は彼の足の運びに合わせて少しずつ伸び縮みした。船員にとって階段の影は信頼できる時計の代わりになる。一段下りる時間で影が三センチ伸びる。それを知っていれば真っ暗な階段でも自分の歩く速度を測れる。透は何百段も影を測りながらヴェルンの町の朝の市場へ歩いた。市場で彼が買ったのは新しい鉛筆を二本と紙束を一冊だった。鉛筆は彼の使い古した一本のための予備だった。書く者には予備がいる。予備がなければ書けなくなる夜が来る。書けなくなる夜は迎えてはいけない夜だった。




