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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第七章 測量

魔狼は夜の同じ時刻に同じ風下から出る。それは船の機関士が毎朝同じ時刻にビルジ水位を測るのと同じくらい確実な習性だった。


 魔狼谷の入口で透は三日分の食料を背負っていた。


 水袋は二つ。一つは飲料用、一つは身体を洗うため。塩漬けの肉。固い黒パン。それと干した果実。装備は革鎧と短剣だけ。剣は使えない。だから役に立たないものは持ってこなかった。


 代わりに地図を二枚、測量用の分度器、ファルナから借りた懐中時計を一つ持っていた。時計はゼンマイ式の古いもので一日に二分ほど進んだ。透は出発前の夜に塔の屋上で星の南中の時刻を観測し時計のずれを補正していた。船員にとって時計の補正は航法の半分である。残り半分は星の位置を知ることだった。両方が揃えば船は世界のどこにいても自分の現在位置を割り出せる。世界のどの世界にいても。


 時計は彼にとって剣より頼もしい武器だった。


 谷は深かった。


 両側の崖が空を細く切り取りその隙間に午後の光が差し込んでいた。風が下から上へ吹いた。風下に魔狼の縄張りがある。風下を風が抜けるとき彼らは決まって動くらしい。土地の老猟師に聞いた話だった。老猟師はもう七十を超えていた。片足を引きずりながらヴェルンの広場で罠の修繕をしていた。透が話を聞きにいくと老人は罠の手を止めず低い声で淡々と語った。「狼ってのは風下から獲物の匂いを嗅ぐ。だから自分も風下から動く。風上に陣取った猟師は決して見つからん。風下のくぼ地に集まる癖だけはどんな世界の狼も変えん」。


 透は岩塔の上に登り分度器を構えた。


 目標は三つ。北の双子岩、南東の滝口、それと夕方になれば見える基準星「シェル」。


 最初の方位線を引いた。北の双子岩、コンパス値三〇二度。


 次の方位線。南東の滝口、コンパス値一三五度。


 二本の線は谷の中央でほぼ直角に交わった。交点を地図に打つ。今日の彼の現在位置。


 翌朝別の岩塔から同じ目標を測った。


 二日目の交点と一日目の交点を結べば彼が一夜で動いた距離と方角がわかる。船員時代の言い方ではこれを「ラン」と呼ぶ。前回の船位から今回の船位までを線で結んだ走航線のこと。ランの方角が谷の本流の流れと二度しかずれていなかった。風と河川と地形は互いに従属して動く。これは惑星のどこへ行っても変わらない。


 三日目の夕方透は魔狼の声を聞いた。


 最初は北で。半時間後に南で。時計を見た。一回目は午後五時十二分。二回目は五時四十一分。差は二十九分。


 四日目の同じ時刻に彼はもう一度測った。北で一回。南で一回。差は二十九分。


 五日目の同じ時刻にも同じ差だった。


 透は谷のどの場所から鳴き声が発しているかを三日間のクロスベアリングで割り出した。北の声は谷の中央から東に三百メートル岩室の中。南の声はその岩室から二百メートル北別の岩室。二つの巣の真ん中ちょうど風下のくぼ地に彼らの「縄張りの中心点」がある。そこを避けて歩けば一頭にも会わずに谷を抜けられる。


 透は避けた。


 会わなかった。


 六日目の夜ヴェルンの町に戻った彼はギルドのカウンターに地図を置いた。


 地図には誰も書き込まなかった等高線、川筋、巣の位置、彼が歩いた走航線。すべてが鉛筆で正確に描かれていた。


 イーオは長いあいだ無言だった。


 それから彼女は短く息を吐いた。


 「あんたF級じゃないわ。Cにする」


 透は答えた。


 「F級でいいです。等級は変えないでください」


 「なぜ」


 「目立つとたぶん仕事ができなくなるから」


 イーオは口を開きかけて閉じた。


 彼女は黙って依頼書の束の中からすぐに次の依頼書を選び始めた。透は受付の机にもたれて短い間ファルナのノートのことを思った。彼女はいまごろ塔の屋上で星を測っているはずだ。星の値を一つ書き留めるたびに彼女の指紋は紙に薄く残る。透の指紋もまた地図の隅に残っている。誰にも読まれない記録の上に二人の指紋が並ぶ。船員が連名で航海日誌に署名する瞬間に近い感覚があった。海の上で人は孤独だが書類の上では決して孤独ではない。


 その夜塔の屋上に戻った彼はファルナに帰還の報告をした。


 報告というほど大袈裟な口調にはしなかったが船員の癖で時系列に沿って淡々と話した。出発地、中継点一、中継点二、中継点三、目的地、危険遭遇の有無、消費量、残量、所要時間、特記事項。ファルナはノートにそれを聞き書きで写し取った。聞き書きの速度は速かった。彼女の鉛筆の先は単語の途中で止まることがほとんどなかった。船員時代の透が新人の頃に憧れた古参の通信士のメモ取りの速度に近かった。透の口の動きと彼女の鉛筆の動きが同じ拍子で進むことに気づいたとき彼は不思議な安堵を覚えた。書く者と話す者が同じ拍子になる関係は職場でめったに成立しない。それが成立した瞬間に人は仕事を超えた何かを共有する。船員の妻はその拍子を生涯かけて夫から学ぶ。だが透とファルナはそれを最初の月から共有してしまった。それは早すぎる獲得だった。早すぎる獲得はしばしば後で代償を要求する。透はその予感を意識の隅に押し込めて報告を続けた。

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