第六章 冒険者ギルド
受付の娘は透の登録用紙の職業欄を三度読み返した。「ナビゲーター……ナビ……何」
ヴェルンの町には小さな冒険者ギルドの支部があった。
石造りの平屋で入口の上に二振りの剣の紋章が掛かっている。中は煙草と汗と薄いビールの匂いがした。木の床は何百人もの靴で磨かれてつるりとしている。床の継ぎ目には乾いた血の染みが残っており新参の冒険者を一瞥で萎縮させるための装飾のように透には映った。
奥のカウンターに座っていたのは二十歳前後の女性だった。
茶色の髪を後ろで一つに束ね口元に小さな黒子があった。名はイーオ。ファルナの数少ない知人で町の依頼の取り次ぎ役を務めている。彼女はカウンターの裏で羊皮紙の山を整理していたがその手の動きから帳簿付けに慣れた人間だと透は判じた。船員時代の事務当直で何度も見た指の動きである。指は薄く乾いており爪は短く切り揃えてあった。
透は登録用紙の職業欄に字も読めない者のために用意された絵の見本のなかからどれも自分には当てはまらないことを確かめた。剣士。魔法使い。僧侶。盗賊。狩人。薬師。最後の余白に「その他」と書かれた小さな枠だけがあった。
彼は空欄に自分の手で「測量士兼航海士」と書き入れた。
イーオは用紙を持ち上げ三度同じところを読み返した。
「ナビ……何」
「航海士です。船で位置を測る仕事をしていました」
「船」
「海の上を走る乗り物です」
イーオは透の制服をしばらく見てそれから諦めたように溜息をついた。
「F級でいい」
「F級でいいです」
「あんたを上の等級で登録するとほかの新人冒険者が不公平を訴えるからね。組合の規約上はじめは全員F級から始める。死ななければ等級が上がる」
「死ななければ」
「死ねばF級のまま除名」
イーオはそう言って薄く笑った。冗談ではないらしい。透はその笑いの薄さを記録しておくべきだと思った。船員にとってこの種の薄い笑いはたいてい本気の冗談ではなく本気の現実報告である。
ギルドの登録証はただの木札だった。
表に焼き印で番号、裏に擦れば消える等級。彼の番号は三七九七。F級の文字は力任せに押されすぎて隅が割れていた。隣に番号三七九八と三七九九の木札が壁に掛かっていた。三七九八の木札には黒い線で大きな×印が描かれていた。三七九九には何も書かれていなかった。透はあえてその意味を訊かなかった。
その日のうちに依頼が一つ回ってきた。
誰もが嫌がる地味で危険な仕事だった。
「魔狼谷の予備調査」
町から二日の距離にある谷だ。狼に似た獣型の魔物が群れで棲みつき数年に一度町外れの羊を襲う。だが谷そのものに正確な地図がない。歴代の冒険者が偵察を試み半数は戻らず戻った半数も方角を見失って情報が混乱した。
ギルドは何度目かの正確な調査を求めていた。報酬は銀貨十枚。新人にしては破格である。だがその破格はあとから値段を上げて頼み込んでも誰も引き受けなかった案件だということを意味している。透はそう理解した。
「測量なら僕の本業の隣の仕事です」
イーオは目を細めた。
「あんた死にに行くだけよ」
透は答えなかった。
代わりにその夜のうちにファルナの塔の屋上で簡易の航海計画を作った。出発地から目的地までをいくつかの中継点で結ぶ。中継点は地形的に方位を取りやすい場所——尾根、岩塔、滝口。
ファルナがその図を見てぽつりと言った。
「あなたの線迷子にならなさそう」
「迷子になっても線が引いてあれば戻れる」
「戻る場所がある人は強い」
「君も戻る場所があるじゃないか」
ファルナはしばらく黙ってから塔の窓のほうへ目を向けた。
「私の戻る場所はここしかない。神殿に戻ったらたぶん別の塔に派遣される。私の地図は私についてこない。私は私の地図の一部だから」
透は鉛筆の先で彼女の塔を地図に丸く印してこう書き加えた。
「帰投地点」
彼にとってそれはとても自然な言葉だった。船員は目的地よりも先に戻ってくる場所を決める。ETAという英略号は次の港への到着予定時刻を意味するがこの予定はあくまで予定であり実際の到着は風と海流と機関の調子で動く。動くことを前提に計画は組まれる。動かないのは戻る場所のほうだ。
ファルナはその「帰投地点」の文字をしばらく見つめてから低く言った。
「ねえ東雲。あなたが戻った後私はあの言葉の上に何を書けばいいの」
透はその問いに答えなかった。
答えなかった代わりに鉛筆の先でその文字を一度だけ薄くなぞった。なぞったところに鉛筆の粉が積もり文字は少しだけ濃くなった。それだけだった。それ以上のことを言うのは早すぎた。船員は早すぎる確約を慎む。確約をして守れなかった瞬間に信用は失われる。信用は積み重ねるのに何年もかかるが失うのは一夜だ。
翌朝透は二日分の食料と水袋を背負ってヴェルンの町を出た。
町の門のところでファルナが立っていた。
彼女は何も言わずただ自分の革のノートを片手で軽く挙げて見せた。
書き続ける。
戻るまで書き続ける。
その合図だった。
透も鉛筆を一度だけ高く掲げてから歩き出した。
町の門を抜けるとき彼は振り返らなかった。出港時は陸を見ない。父から受け継いだ作法はこの世界の門の前でも有効だった。
歩き出して数百歩ののち彼は街道の脇の小さな祠の前で一度だけ立ち止まった。祠は古い石を三つ積み上げただけの簡素なもので頂点に小さな木札が掛けてあった。木札には旅人の守護神の名前が薄く彫られている。透はその文字を読めなかったがファルナから祠の存在については前夜聞いていた。
「旅の出だしに必ずひと撫でしてから歩き出すの。誰もが昔からそうしてきた」
誰のためのおまじないなのか彼女に訊いたが彼女は答えなかった。代わりにこう付け足した。「答えは知らない。でも撫でる」。
透は木札の角を指で軽く撫でた。指の腹に苔の薄い粉が乗った。粉は緑というよりむしろ灰色に近かった。長く撫でられ続けた木の角は丸くなる。船員にとって丸くなった角はたいてい誰かに愛された証だった。彼は短く心の中で旅の安全を祈った。祈り方は知らない。祈り方を知らなくても祈りはできる。祈りは作法ではなく重心の調整である。彼の重心はその祠の前で少しだけ後ろ足から前足へ移った。歩き出すための重心の位置が定まった。それで十分だった。
ヴェルンを出て北東へ二日の道のりが始まった。




