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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第五章 星を測る

六分儀の代わりに彼は宿の窓枠と鉛筆と自分の親指を使った。


 ファルナの塔で寝泊まりするようになって三日が過ぎた。


 食事は黒パンとチーズと豆のスープ。豆のスープは中世の暮らしの主食で塩漬けの肉の切れ端が浮かんでいる。透は最初の一口で顔を顰めかけそれからこれが当たり前の世界に来たのだと自分に言い聞かせた。塩は中世においては保存料であり保存料を制する者が冬を制する。船員の常識でいえば塩漬けは長期航海の必需品でありかつての帆船時代の主食もまたこの種の塩辛い肉である。透の舌は二日でこの味に慣れた。


 塔の真下には小さな書斎があった。


 ファルナはそこで毎晩観測した星の位置を書き写していた。彼女は神殿から派遣されてここに来て二年になるという。報告書は月に一度王都の神殿本部に送られるが返事は一度も来ていない。


 「読まれてないと思う」とファルナは事もなげに言った。「でも書くのは私の仕事だから」


 透はその言葉に自分の航海日誌のことを思った。


 彼の手書きの記録は本社のサーバーに転送された後誰にも開かれないまま倉庫の磁気テープに保存されるだけだった。それでも彼は書き続けてきた。記録を取るのは誰かに読ませるためではない。書くという行為それ自体が観測者を観測者にしておくための儀式だ。航海日誌に時刻と気圧を書く瞬間にだけ船員はもう一度船員でいられる。書かなくなった瞬間にその人間は士官ではなくなり甲板で漫然と過ごす旅客のひとりに堕する。透はそれを知っていた。郡司岳人もかつてはそれを知っていたはずだった。


 四日目の夜透は塔の屋上に登り自分のやり方で星を測ってみた。


 外洋では六分儀を使う。水平線と天体の角度を測りその値から船の位置を割り出す古典航法である。視程の悪い夜には複数の陸標たとえば山頂や灯台や教会の塔の方位をコンパスで取りそれぞれを海図に線として引き線が交わった一点を自分の今いる場所として定める。これがクロスベアリング。交差方位法と呼ばれる古典航法のひとつだった。


 一つの目標では自分がどの方角にいるかしか分からない。二つあれば二本の線の交点で位置が確定する。三つ目を測れば誤差の有無を確認できる。三本目の線が二本目までと違う一点を指していればどこかに測定誤差が混じっている。三本目が一致すれば確定だ。船員はその三本目を「確認線」と呼ぶ。


 たったそれだけの技術だった。


 たったそれだけの技術がたった一人の二等航海士を六年間支えてきた。


 透は六分儀の代わりに塔の北東に見える鋭い山頂、北西の修道院の鐘楼、それに天頂寄りの基準星「シェル」の方位をファルナの分度器を借りて測った。三本の方位線を彼女の地図に書き込んだ。三本は塔の真下から半マイル離れた小さな丘の上でほとんど一点に交わった。


 ファルナは黙ってその交点を見た。


 それから自分の現在位置のずっと正確な場所を塔の真下の点で示した。


 「あなたの線は半マイルずれてる」


 「分度器の傾きをまだ補正していないからだ」


 透は静かに言った。


 「補正のやり方を僕は知っている。船で六年やってきた」


 「補正って」


 「分度器の水平基準が傾いていたら値も傾く。だから三本のうちの一本を既知の点に固定して残り二本のずれの方向から計器の傾きを逆算する。船員はこれをセルフチェックと呼ぶ」


 ファルナの目に初めて光が宿った。


 彼女はその夜二人分の燭台を屋上に運び透が三十回くりかえす測定を一度も席を立たずに見届けた。三十回目の測定で透の三本の線は完璧に塔の真下で交わった。残り二十九回の試行はすべて記録に残された。彼女は記録の取り方を知っている人間だった。失敗の記録を残せる人間は失敗を恐れない。透はその夜彼女のことを少しだけ尊敬した。


 ファルナは小さく言った。


 「あなた何者なの」


 透は鉛筆の先で紙の角を軽く叩いた。


 「ただの航海士だ」


 「航海士って」


 「船で星を見て位置を測る人間」


 「私と同じ仕事じゃない」


 「同じだ」


 ファルナは少し驚いた顔をした。それから何度か呼吸を整えて低く言った。


 「同じ仕事の人間に初めて会った」


 夜風が冷たかった。


 遠くで犬が鳴いた。


 二人の足元の小さな町はまだ何も知らずに眠っていた。塔の屋上の燭台の炎は二つとも風に煽られながらしぶとく燃え続けた。透はその炎の影が彼女の頬に揺れているのを見て胸の奥で何かが定まる気配を感じた。何が定まったのかは言葉にできなかった。ただ船員はいつも言葉になる前の感覚を信じる訓練を受けている。気圧の針の動きに似ている。たいてい数字で見えるよりも先に体で気づく。


 「東雲」とファルナが言った。「ねえ私の名前を呼んでみて」


 「ファルナ」


 「悪くない発音」


 「ありがとう」


 「ありがとうって何」


 「君の世界では言わないのか」


 「言うけどあなたの言い方は丁寧すぎる」


 透は短く笑った。彼の笑いは久しぶりに自分の体から出てきた笑いだった。


 その後ふたりは塔の屋上の手すりに並んで腰を下ろし夜が更けるまでさまざまな星座について語った。ファルナのいる世界の星座は透の知る星座とは全く違っていた。北極星に当たる位置の星は「リガナ」と呼ばれ周囲の七つ星の連なりは「銀の柄杓」ではなく「老婆の手」という名がついていた。老婆の手の星座は人差し指の先端の星が一年に一度だけ短時間赤く点滅する。その点滅の周期は二百四日。神殿の天測士たちはその点滅で暦の正月を決めていた。透はファルナの説明を聞きながら自分のノートに彼女の発音をそのままカタカナで書き写した。「リガナ」「ロウバの手」「シェル」「シャマ」「コトン」「ルゥラ」。発音だけ書き取っても意味は分からないが書き取っておけば後で意味を尋ね直せる。船員にとって発音の記録は文字の記録と同じくらい重要だった。船員は世界中の港で土地の言葉を覚える。覚えなければ食事も買えない。覚えれば友人ができる。友人ができれば次の航海でその港に寄港したとき真っ先に岸壁で挨拶を交わせる。挨拶は港町の通貨だった。通貨は貯めれば貯めるほど人間を裕福にする。彼はその夜ファルナとの会話の中でいくつかの「言葉の通貨」を貯めた。貯めた通貨は彼が彼女の世界で最初の数か月を生き抜くための資金になった。

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