第四章 最初の取引
その娘は塔のてっぺんで星に向かって舌打ちをしていた。
北への馬車を三度乗り継いで透は六日かけて辺境の小さな町に着いた。
町の名はヴェルン。
石造りの家が斜面に張りつきその頂上に細い塔が一本立っていた。塔は古かった。屋根の銅板は緑青に覆われ入口の扉は二重になっていた。風除けの工夫らしい。塔の根方の壁にはかつてここに刻まれていたらしい文字の跡があったが長年の風雪で読めなくなっていた。透は壁に手を当ててその跡を撫でた。冷たい石の粒子の感触が指先に残った。
塔の階段を登った。
螺旋階段が四階分二百段以上。途中に窓はなくところどころに鯨脂のランプが置かれている。獣脂の匂い。もう一つは紙とインクの匂い。透の鼻はこの二つの匂いを別々に識別した。船員の鼻は機関室の油の匂いとブリッジの紙の匂いを別々に嗅ぎ分ける訓練を積んでいる。匂いを分けて記憶することは火災の早期発見にも役立つ。
最上階の扉を開けると外気が頬を打った。
屋上は石の手すりに囲まれた円形の観測台になっていた。中央に古い天測の道具が据えてある。象限儀のような形をしているが目盛りは透の知らない文字だった。文字の隣に小さな彫り込みがあり一目盛りごとに金色の塗料が薄く残っていた。塗料は擦り切れた部分のほうが多い。長く使われた道具だとわかる。
道具の脇に若い娘が立っていた。
肩までの黒髪。痩せた肩。藍色の長衣に縄帯を巻き足は素足のまま。手にした分度器のような道具を空に向けてまっすぐ突き上げている。
彼女はしばらく身じろぎもしなかった。
それから低く舌打ちした。
「シェルがまた半度ずれてる」
独り言だった。声は若いのに口調はずっと年寄りに近かった。
透は二歩離れた場所で咳払いをした。
娘は振り向いた。
目は黒くてまっすぐで何の表情も含んでいなかった。透の制服を見ても彼女は驚かなかった。塔の住人は驚き方を忘れる。観測者は驚かない訓練を二年で身につける。透はその目に親近感を覚えた。
「あなた新しい掃除当番」
「いえ天測士の見習いに応募に来ました」
娘は分度器を下ろした。それから透の足元から頭まで一度だけゆっくり視線を動かした。
「字は書ける」
「書けます」
「毎日同じ場所で同じ時刻に同じ星を見続けることに二年我慢できる」
透は少し考えた。
ブリッジの当直は六年毎日同じ時刻に同じ計器を見ていた。
「できます」
「他人の評価がいっさいなくても続けられる」
「続けられます」
「賃金は最低です。冬は寒く夏は虫が湧きます。それでも構わないの」
「構いません」
娘は短く頷いた。何かを試した結果に納得したような頷き方だった。
「私はファルナ・ノクタ。神殿派遣の見習い天測士。あなたは」
「東雲透」
「シノノメ……変な発音」
ファルナはそう言いながら机の上から一冊の本を取って差し出した。革の表紙が擦り切れていた。表題は読めなかったが中を開くと見覚えのある形をしていた。
罫線。日付。時刻。観測値。
航海日誌とほとんど同じ書式だった。
透の胸の奥で何かが軽く震えた。彼は自分の航海日誌を取り出してファルナの本の隣に並べて置いた。二人は互いのノートをしばらく見つめた。
ファルナが先に口を開いた。
「ねえその鉛筆の握り方変だね」
透は答えた。
「波の中でも書けるようにこう持つんだ」
彼女は初めて微かに笑った。
笑い方は遠慮がちで肩のあたりに小さな震えが走った。それが彼女のもとの笑い方なのか久しぶりの笑い方なのか透には分からなかった。だが鉛筆を持ち直す彼女の指の動きを見て透は気づいた。彼女もまた波のなかで書く者の握り方をしていた。塔の屋上に波はないがそれでも風で揺れる夜の観測台で記録を取りつづけた者の握り方だった。
二人はその夜から同じ机に向かって書く者になった。
ファルナはその夜厨房の薪を一本余分に焚いてくれた。塔の書斎の暖炉に薪が一本増えるだけで部屋の空気は少し甘くなる。彼女は薪の追加について何も説明しなかった。ただ「火が小さいから」とだけ言って暖炉の前にしゃがみ火搔き棒で炎の根方を二度三度ほぐした。火はゆっくり明るくなった。透は彼女のその手の動きを横目で見た。火搔き棒の使い方は彼女が孤児院の時代から覚えてきたものらしい。手首の角度の決め方が老人の動作に似ていた。一人で生きてきた子供は自然と老人の動作を身につける。船員にとって若い操舵手の手首の動きを観察するのは大事な仕事のひとつだった。手首の動きを見れば船員としての成熟度が分かる。ファルナの手首の動きはおそらくこの塔の世界で最上位の成熟度に達していた。透はそれを観察して心の中で深く頷いた。彼女に対する評価は職人に対する評価だった。職人に対する評価は船員にとっていちばん信頼できる種類の好意だった。好意は感情の上に立てると不安定だが職人への敬意の上に立てると揺らがない。彼の心の中の足場はその夜静かに一本据えられた。




