第三章 追放
城門を出るとき透は振り返らなかった。船乗りの最初の作法は出港時に陸を見ないことだと父に教わっていた。
石畳の道は緩やかな下り坂で王都の城下町へと続いていた。
午後の光が長く伸びている。透は人々の流れに紛れた。すれ違う者たちは彼の紺の制服を一瞬だけ見てすぐに目を逸らした。異邦人だと分かるのだろう。物乞いだとは思っていない。物乞いの服はもっと汚れている。布の繊維のまっすぐ立ち上がった毛羽が制服を識別する手がかりだった。安物のリネンしか見たことのない庶民の目にはこの紺の合成繊維はあきらかに別の世界から来た布として映る。
肺の奥に風がしみた。
考えなければと透は思った。
まず宿。次に食べ物。それからここがどういう世界なのかを把握する。船員の頭はそういうふうに教育されている。緊急時にまず安全を確保しそれから状況を整理する。船で火災が起きたときの手順と同じだった。火災の手順は機関部にいた頃に何度も訓練を受けた。第一に通報、第二に火源の遮断、第三に酸素の遮断、第四に逃げ道の確保。順序を守らずに焦って火に水をかけても油火災では爆発するだけである。今の自分の状況も似ている。先に状況を理解しようとして焦って混乱しても何も解決しない。順番だ。順番が船員を救う。
宿は城下町の北の外れにあった。
看板に薄れた羊の絵が描かれてある。屋根は瓦ではなく木の板を重ねたもので所々が黒く焼け焦げていた。煙突から細い煙が立っている。煙の色は薄い。獣脂を燃やしているらしい。透が読んだ本のなかで中世の都市の照明は獣脂のキャンドルとイグサの芯を脂に浸したラッシュライトが庶民の標準だと記されていた。教科書の知識が現実の煙の匂いとして鼻腔に届くというのは奇妙な感覚だった。
受付の女将は四十がらみの太った女で透の制服を一瞥して何も訊かなかった。
銀貨一枚と引き換えに屋根裏の小部屋を貸した。部屋は狭かった。藁を詰めた寝台と欠けた水差しそれと壁の隙間から差し込む西日。寝台の藁は新しく取り替えたばかりらしく薄い乾草の匂いがした。透にはその匂いが少しだけありがたかった。船員にとって洗濯したばかりのシーツの匂いは出航前の岸壁と同じだ。生活の匂いがあるかぎり人はまだ生きていける。
彼は寝台に腰を下ろしそれから航海日誌を開いた。
最後の頁の罫線が波で滲んでいた。墨ではなく鉛筆書きなのに湿気で擦れていた。書きかけの「九八三」という数字はもう半分消えかけていた。透はその数字を指の腹でそっと撫でた。鉛筆の粉が指紋の溝に薄く入り込む感覚があった。船員の指は鉛筆の粉と機械油の混じった指紋を持つ。陸の人間とは違う指紋だ。郡司岳人がかつてそうだったように。
彼は新しい頁を開き書き始めた。
「召喚日。時刻不明。場所不明。気温推定十八度。風向無風」
書きながら不思議と気持ちが落ち着いた。
数字を書くという行為が彼を彼の輪郭に戻した。船員はいつでもそうやって自分を取り戻してきた。何が起きても何が分からなくても風向を測れば自分は航海士だった。気圧を読めば自分は二等航海士だった。書き留めた瞬間に世界はわずかでも記述可能なものになる。記述可能な世界は完全な絶望ではない。
その夜廊下の向こうの大部屋から酔った商人たちの話し声が漏れてきた。
「北の塔がまだ天測士を募集しているらしい」
「あんな辺境に行く者はもうおらん」
「給金は安いが塔ごと屋根と食事つきだ」
「神殿から派遣された娘ひとりだけで二年もよく持っているもんだ」
透は耳をそばだてた。
天測。星を観測する仕事。
彼は深く息を吸い頁の一番下にもう一行書いた。
「明朝北へ」
その三文字だけで進路は決まった。船員の航海計画はいつでもそういうふうに始まる。出発地と目的地さえ書けば中継点は途中で考えればよい。透は鉛筆を畳んで胸ポケットに戻し寝台に横たわった。屋根裏の隙間から夜空の一部が見えた。彼の知らない星の配置だった。北極星が見えるべき位置に別の二等星らしき光があり北斗にあたる七つ星はそもそも見当たらない。それでも空の高度と方位の取り方は変わらない。星が変わっただけだ。仕事は変わらない。透はそう自分に言い聞かせて目を閉じた。
眠りに落ちるまえに父の煙草の匂いを一度だけ思い出した。
父はもう死んでいる。
帰る家には母がいる。
戻る場所はある。
それだけ確かめれば船員はだいたい眠れる。
眠る前にもうひとつだけ彼は思い出した。新人の頃の航海で南半球の港に入ったときのこと。彼は当時三等航海士で初めて赤道を越えた興奮を父にどう伝えればいいか考えていた。船から電報を打つことはできたが文字数の制限が厳しかった。父は寡黙な人だったから三言以内で十分だろうと思った。彼は結局「赤道、星新し、無事」とだけ打った。父からの返信は二日後に来た。「了解、書け」。それだけだった。書けというのは詳しく書けという意味なのか航海日誌に書けという意味なのか分からなかったが彼はその夜から長く書く習慣をつけた。父はおそらく両方の意味を込めていた。父にとって書くことは生きていることの最低限の合図だった。書いている者は生きている。書かなくなった者はだいたい死んでいる。それが彼の家の伝統だった。
その伝統に縋りながら透は今夜屋根裏の藁の寝台の上で目を閉じた。
書いている者は生きている。
彼はまだ書いている。
だから彼はまだ生きている。
単純な三段論法が彼を眠りに落とした。




