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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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 第二章 召喚

男の顔の前に剣の切っ先があった。先端は震えていた。震えていたのは剣ではなく剣を持つ若い騎士のほうだった。


 透は床に倒れていた。


 頬の下が冷たい。床は石だった。石の継ぎ目に微かな塵が積もっている。鼻先に香煙の匂いがした。乳香に似ているがもっと甘い。手前の床に細い影が落ちており影の中に自分の顎の輪郭がぼんやり映っていた。生きている。少なくとも肉体は今この場所にある。透は何度も浅く呼吸して肺を動かしてからゆっくり顔を上げた。


 天井が高い。


 アーチ型の梁が幾本も渡されその上に色硝子の窓があった。光が斜めに差し込み床に七色の格子模様を落としている。教会の絵本で見たような景色だった。柱は太く石を磨いて作ってある。柱の根方には金色の唐草模様が彫り込まれていた。透は祖父の家にある彫り物の欄間を思い出した。手仕事だと一目でわかる類の彫りである。電動工具では出せない不揃いの優しさがあった。


 周囲には十数人の人間が立っていた。


 白い長衣の神官が八人。鎧の騎士が四人。中央に銀の冠を被った中年の男がひとり。男は失望の色を隠さずに隣の老司祭に何ごとかを呟いていた。


 老司祭は両手を組み合わせ痩せた指を引きつらせていた。


 「鑑定をやり直せ」と王は言った。低い声だった。


 神官の一人が透に近づき額に触れた。指は乾いていた。皮膚の下を冷たい水が通り抜けるような感覚があった。神官はしばらく目を閉じそれから首を二度横に振った。


 「魔力値は規定の千分の一に満たず。剣技も戦闘経験もなし」


 囁きが広がった。


 透は身体を起こした。膝が震えた。自分が制服のままであることに気づいた。コンテナ船のブリッジで着ていた紺色の制服である。袖の縫い目には海水の塩が結晶していた。胸ポケットに鉛筆の角が引っかかっている感触がある。胸の鼓動より先にその感触のほうを彼は確かめていた。


 「異界の勇者よ」と王が言った。落胆を抑えた表面だけの声だった。「召喚の儀において汝が選ばれた。だがこれは……どうやら手違いだったようだ」


 「手違い」と透は繰り返した。声が掠れた。


 王は答えなかった。代わりに老司祭が答えた。痩せた司祭は目だけは優しかった。


 「次のロットで召喚し直そうという話になっておる。気を悪くせんでくれ」


 次のロット。


 透の頭のなかでその言葉だけが妙に明瞭に響いた。漁協の競りでよく聞いた言葉である。マグロが揚がる季節にまだ目当てのものが揚がらなかったら次の網を待つ。あれと同じ口調だった。船員にとって最も慣れた口調のひとつだったがこの口調を他人から自分に向けて言われるのは生まれて初めてだった。


 彼は胸ポケットに手を入れた。鉛筆と折り畳まれた小さな航海日誌があった。鉛筆は折れていなかった。日誌の表紙の角は擦り切れていたがまだ綴じ糸はしっかりしていた。それだけ確認すれば十分だった。


 「あの」と透は言った。「いまここはどこですか」


 誰も答えなかった。


 神官たちは互いに視線を交わすばかりで王は中空を睨んでいる。透の問いはこの場の規模に比して小さすぎる問いだったらしい。それが彼にはむしろ救いだった。大きすぎる問いは答えを出すまでに長い時間がかかる。小さな問いは小さなまま放っておいてもよい。航海中の二等航海士はいつでもそうやって小さな問いを小さなまま処理し続けてきた。


 ただ若い騎士の一人が震える剣の切っ先をゆっくりと下ろした。


 その若い騎士は十六か七に見えた。頬には磨いていない薄い髭が散らばっており兜の縁から覗く前髪は汗で額に貼りついている。透が起き上がろうとしたとき彼は剣を下ろすまえに一度小さく咳払いをした。「ご無礼を」と低く呟いた声を透は聞き逃さなかった。少なくともこの世界に丁寧に振る舞おうとする人間が一人いる。それがわかれば足元の冷たい石の床が少しだけ近しいものに感じられた。


 その日の夕方透は王城を追放された。


 持ち物は制服と鉛筆と航海日誌一冊それと手切れ金の銀貨三枚だった。銀貨は薄く磨り減っており縁にいくつか欠けがあった。中世史実準拠の通貨ということだろう。透はそう考えてからふと自分が「中世史実準拠」などというどこで覚えたかもわからない言葉を脳内で使っていることに小さく笑った。船員の頭は緊急時に小さな笑いを失わない訓練を受けている。それも父から教わった作法のひとつだった。


 城門の前で透は一度だけ振り返ろうとしてやめた。


 父にいつか教わった船乗りの作法を思い出した。


 出港のときは陸を見ない。陸を見ると戻れなくなるからだ。


 戻る場所を捨てる作法ではない。戻る場所を信じる作法である。父はそう言った。


 城門を出てすぐの石段の途中で透は一度だけ自分の手のひらを開いた。手切れ金の銀貨三枚が薄い汗を吸って手のひらの皮膚にうっすら張りついていた。三枚の重みは合わせて六匁ほどだろうか。船員時代に新人の頃輸送した銅の地金の重さの感覚で彼は瞬時に質量を割り出した。質量が割り出せれば物の正体が見える。中世史実準拠の銀貨の規格はおおむね一枚四グラム前後。彼が手にしているのは少なくとも国家鋳造の正式な通貨である。偽銀ではない。少なくとも王城は偽銀で異界の客を追い払うほどの貧しさではないということだった。


 その小さな安心が彼を一段先の石段に進ませた。


 石段は崩れかけており角の欠けた箇所に夕方の日差しが浅い影を落としていた。城の門番の若い兵士が彼を見送ろうとしてか短い視線を送ってきた。透はその視線に短く頷きを返した。礼ではなく単なる相互確認の頷き。船員同士が狭い通路ですれ違うときに交わすあの最低限の合図だった。兵士は驚いたように一瞬まばたきをしそれから自分も短く頷き返した。


 石段の途中で透の制服のズボンの折り返しから小さな砂粒が一つ落ちた。


 砂粒は石段の隙間に滑り込み消えた。北太平洋の塩の結晶だろうか。彼の制服には目には見えない量のあの夜の海が今でも染み込んでいる。彼はそれが少しだけ嬉しかった。証拠が手元にある限り彼はまだ船員だった。船員のままであれば人間としての方位は失わない。方位を失わなければ人間は迷子にならない。新人の頃に船長から繰り返し言い聞かされた言葉だった。「方位を失うな、東雲。海の上でも陸の上でも方位を失うな」。

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