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クロスベアリング ―二等航海士、異世界の星を読む―  作者: もしものべりすと


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第一章 夜間命令

 北太平洋。風力八。波高六メートル。鉛筆の芯が三度折れた夜、海から光が立った。


 東雲透はブリッジの中央に立っていた。


 時刻は午前一時四十二分。深夜から朝までの四時間を一直として担当するこの当直は、船員のあいだで古くからミッドナイトと呼ばれる。眠気と疲労がもっとも深く頭蓋の内側に張りつく時間帯であり、若い見習い士官は二度の航海でだいたい一度は熱を出す。透はその当直をすでに六年続けていた。


 外洋を行くコンテナ船「玄洋丸」は三万トンを超える鉄の塊で、いまその腹に北からのうねりを真横から受けている。船体が長く軋み、操舵室の右舷の窓に飛沫が打ちつけた。視程ゼロ。レーダーの輝点は雪の中の蛍のように瞬いている。気圧の針は三十分まえから単調に下がりつづけ、いまでは九百八十三ヘクトパスカルを示していた。低気圧の谷の底に近い。


 透は鉛筆を握り直した。


 航海日誌に毎時の風向と気圧と視程を書きつけるのは二等航海士の基本中の基本だった。電子機器はすべてのデータを自動で保存する時代である。それでも紙の航海日誌だけは人間の手で書く決まりだった。手で書くという行為が見る考える確かめるという三つの動作を結ぶと初任の頃に船長から教わった。揺れる船のブリッジで濡れた手のひらの汗を制服のズボンで拭い鉛筆の角度を保つ訓練を透はこれまで何百日繰り返してきたかわからない。


 風向北北東。気圧九百八十三。視程一マイル未満。


 数字を一文字ずつ刻みつけて透はレーダーの前に戻った。CPAという英略号がディスプレイの隅で点滅している。Closest Point of Approach。他船との最接近距離のこと。二マイルを切ったら船長を呼ぶ規則だった。船長が机に残した夜間命令ノートの最初の行に太い万年筆でこう書いてあった。


 「視程不良時、近接他船を察知したらば直ちに船長へ報告すること」


 単純な文言である。だが透はその一行を新人の頃からずっと諳んじていた。船員の世界では当たり前の文を当たり前に守ることが命を守る。逆に当たり前の文をひとつ守らなかった瞬間に船は沈み人は死ぬ。透の父がそう教えた。透の父は外航船の機関長で透が大学に上がる年に網漁の漁船との衝突事故で死んだ。漁船の側が深夜に無灯火だったため過失の七割は漁船にあるとされた。残りの三割は当直士官にあった。当直士官は若く規則どおりに船長を呼ばなかった。父はその規則を毎晩晩酌のときに口にしていた。「視程不良時近接他船を察知したらば直ちに船長へ報告すること」。


 透はその父の口癖をブリッジで諳んじながら六年生きていた。


 通信機が短い電子音を立てて鳴った。


 夜間メールの着信だった。差出人欄に海務監督・郡司岳人の名前がある。透は息を吐いてから画面を開いた。


 ――「ヌーンレポートのフォーマットがいまだに旧式です。来月からはAI自動生成のテンプレートに移行します。手書き派は早めに頭を切り替えてください」


 末尾に薄笑いのような顔文字が一つ付いていた。


 透はモニターから目を逸らした。


 郡司は陸の海務監督で本社の海務部に席を持つ男だった。三十七歳。社内でいちばん声が大きくいちばんよく訪船してくる。彼は透の鉛筆海図と紙の日誌を見るたびにこう言うのだった。


 「いつまで石器時代の真似してるんですか東雲さん」


 返す言葉はいつも喉の手前で止まった。


 郡司岳人もかつては航海士だった。透が新人の頃の一等航海士が郡司である。十年前。当時の郡司は今のような皮肉屋ではなく几帳面な手書き派の士官だった。鉛筆の芯を毎晩同じ角度で削るような男だった。だがある航海でひとつの事故があった。彼が当直のときに沿岸航行の浅瀬で船底を擦りそうになった。実際にぶつけたわけではない。レーダーで気づいて回避した。それでも陸上監督から事情聴取を受け始末書を書かされた。彼の几帳面な手書きの船位記録が陸の人間に「ECDIS優先を怠った」と解釈されたのである。電子海図情報表示装置と呼ばれる電子海図のシステムを使えば回避はもっと早かったと指摘された。郡司はその一件を境に手書きを捨て陸に上がった。透はその経緯を新人の歓送迎会で先輩から一度だけ聞いた。


 その郡司が今夜もまた手書きを嗤う。透は薄く笑おうとして失敗した。笑えない夜は当直の電灯の白さがいつもより強く感じられる。彼は窓の外に視線を戻した。


 そのときだった。


 波頭でも稲妻でもない光が正面方向針路十二度の海面から垂直に立ち昇った。青白い色だがどこか冷たくない光。視程ゼロのはずの空気のなかで光だけが鮮明に見えた。光の柱は太さおよそ船の二倍。高さは雲の底に届くまで。柱の表面には微かな縞が走っており縞は螺旋を描きながらゆっくり上昇している。


 レーダーには映らない。


 CPAも示されない。


 AISという他船自動識別装置の画面にも何の表示もない。


 透の頭はその瞬間に三つのことを同時に考えた。第一にこの光は他船ではない。第二に他船ではないが何かの航空体である可能性は否定できない。第三に夜間命令ノートの第二行に「奇異な視認物標は直ちに船長へ報告」と書いてあった。


 彼は反射的に操舵スタンドの脇のスイッチに手を伸ばした。船長の居室を呼ぶブザーである。指先がスイッチに触れた瞬間に光は彼の体に届いた。


 冷たくなかった。むしろ十二月の朝に湯気の立つ味噌汁の表面を触ったときのような懐かしい温度だった。


 ブリッジの計器がすべていっせいに消えた。


 最後に見たのはまだ書きかけだった航海日誌の罫線。最後に書いた数字は「九八三」。気圧の値だ。鉛筆はその数字の右側で止まっていた。隣に空いた行が一行。その一行が誰の筆跡で埋まることになるのかをこのとき透はまだ知らなかった。


 光柱の中で彼の身体は重さを失った。


 失った重さの行き先は彼にも分からなかった。だがその直前の一秒だけ彼は自分の人生の何枚かの頁が同時にめくられる感覚を味わった。父が初めて漁港の岸壁で彼を抱き上げたとき。中学に上がった春に父が古いコンパスを譲ってくれたとき。海技学校の卒業式の朝に母が彼の制服のボタンを直してくれたとき。あの嵐の夜の四十五分前に船長と二人で当直交代の儀礼に従い小さく敬礼を交わしたとき。すべてが順序を保ったまま光の中で並び替えられた。船員の死の直前の感覚というのはこういうものかもしれないと透は思った。だがこれは死ではなかった。死とよく似た別の手続きだった。彼が降りる場所は海の底ではなかった。もうひとつの当直の場所だった。

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