第2話
店内に、張り詰めたような沈黙が流れる。
昼下がりの柔らかな光が差し込むカウンターで、元夫・達也は、まるで信じられないものを見るかのように志穂を凝視していた。
「志穂……本当に、お前なのか……?」
その声は、かつて志穂を「地味で退屈」と切り捨てた時の傲慢な響きが嘘のように、掠れて、小さく震えていた。
見違えるほどやつれたその姿に、志穂は内心で驚きつつも、すぐにすっと表情を消した。
心臓が嫌な音を立てたのは一瞬だけ。今の志穂にとって、目の前にいる男は傷つけられた元夫ではなく、ただの「招かれざる客」でしかない。
「――いらっしゃいませ。お一人様ですか? カウンターの端へどうぞ」
志穂は、寸分の隙もないビジネスライクな笑顔を浮かべ、お茶の入った湯呑みをコトリと置いた。
「し、志穂……? その格好、それにこの店……お前がやっているのか?」
「ええ。ご覧の通りです。ご注文はどうなさいますか? 本日は『日替わり一汁三菜定食』のみとなっておりますが」
「あ、ああ……じゃあ、それで……」
達也は困惑したように視線を泳がせながら、促されるままカウンターの席に腰を下ろした。
厨房に戻った志穂は、一切の手元を狂わせることなく、テキパキと準備を進める。
大根と豚肉の旨味が溶け込んだ熱々の豚汁を器に注ぎ、じっくり味が染みた肉じゃがを盛り付ける。最後にふっくらと炊き上がった白米をよそい、お盆に乗せて達也の前へと運んだ。
「お待たせいたしました。日替わり定食です」
目の前に並べられた料理を見た瞬間、達也の喉がゴクリと鳴った。
湯気とともに立ち上る、カツオと昆布の芳醇な香り。醤油とみりんの甘辛く、どこか懐かしい匂い。
それは、達也がこの数ヶ月間、喉から手が出るほど欲していながら、二度と手に入らないと絶望していた「あの味」の匂いだった。
(この匂いだ……間違いない、志穂の飯だ……!)
達也の手が、がたがたと震えながら箸を掴む。
まずは、飴色に染まった肉じゃがのジャガイモを一口、口に運んだ。
「――っ!?」
口に入れた瞬間、ホロリと崩れたジャガイモから、濃厚な出汁と素材の甘みがじゅわっと溢れ出した。
続いて、豚汁をすする。五臓六腑に染み渡るような優しい味噌の風味と、野菜の甘み。
「美味い……美味すぎる……!」
達也は、周囲の目も忘れて、狂ったように料理を口に運び始めた。
ご飯をかき込み、出汁巻き卵を頬張り、汁をすする。
美味い。ただひたすらに美味い。そして、涙が出そうなほどに身体が、胃袋が歓喜している。
志穂と離婚した後、達也の生活は一変していた。
華やかな浮気相手・美香との同居生活は、最初こそ刺激的だった。しかし、美香は家事を一切しない。キッチンは物置きと化し、毎食が高級なデリバリーや脂っこい外食、コンビニの弁当になった。
最初は良くても、激務が続く達也の身体はすぐに悲鳴を上げた。胃は荒れ果て、口内炎が治らず、毎朝泥のように重い身体を引きずって出社する日々。
『達也さん、今日も外食でいいよね? 私、新作のフレンチが食べたいな』
『また胃薬飲んでるの? 男のくせに情けないなぁ』
美香の派手な笑顔を見るたびに、達也の脳裏をよぎるのは、いつもエプロン姿で優しい手料理を作って待っていてくれた志穂の姿だった。
「地味で退屈」だと捨てたあの料理が、どれほど自分の健康と出世を支えていたか。失って初めて、達也は気づいたのだ。
気づいた時には、すべてが遅すぎた。
「うっ……うう……っ」
達也の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、肉じゃがの器に落ちそうになる。
一粒残さず綺麗に平らげられた皿を前に、達也は鼻をすすりながら、カウンターの向こうの志穂を見上げた。
「志穂……俺、バカだった。お前がいないと、俺の身体はもうダメなんだ。毎日、お前の飯のことばかり考えてた。体調も最悪で、仕事もうまくいかなくて……」
達也は、すがるような目を志穂に向ける。
そこにあるのは、かつて見下していた妻への、醜いほどの依存と執着だった。
「志穂、お願いだ。もう一度、あの家に帰ってきてくれ。美香とは別れる。お前のありがたみが、今なら痛いほど分かるんだ。だから――」
未練を剥き出しにして、カウンター越しに志穂の手を握ろうと、達也が身を乗り出した。
しかし。
志穂は一歩、すっと後ろに下がり、達也の手を完璧な身のこなしでかわした。
その顔には、怒りも、悲しみも、同情すらもない。
ただただ、丁寧で、冷ややかな笑顔だけが張り付いている。
「お粗末様でした、お客様。お会計は、税込で1,000円になります」
「え……? 志穂……?」
「当店、次のお客様がお待ちですので、お食事がお済みでしたらお席をお譲りいただけますでしょうか」
事務的な志穂の声と同時に、店の引き戸がガラガラと開いた。
「あ、すいません、もう入れますか?」と、外で待っていた次のサラリーマンが顔を覗かせる。
達也は完全に言葉を失った。
目の前にいる志穂は、自分の言葉を拒絶したのではない。
拒絶する価値すらない「その他大勢の客の一人」として、完璧に処理しているのだ。
「あ……あ……」
財布から震える手で1,000円札を取り出し、トレイに置く達也。
志穂はそれを流れるような動作で受け取ると、満面の笑みで引き戸を開け、外の客を招き入れた。
「いらっしゃいませ! カウンターへどうぞ!」
新しい客に向ける、心からの輝くような笑顔。
かつて自分だけに向けられていたはずのその温もりを、今の自分は受けることすらできない。
絶望に打ちひしがれながら、達也は逃げるように店を出た。
しかし、彼の足は、翌日も、その翌日も、吸い寄せられるように路地裏の行列へと向かってしまうことになる。
――そして一週間後。
達也がいつものように未練たらたらでカウンターに座り、スープを口に含んだその時。
店の引き戸が、バンッ!!!と凄まじい音を立てて開け放たれた。
「ちょっとぉ!! 達也、あなた毎日こんな小汚い店に執着して、何やってるのよ!!」
キンキンと響く、ヒステリックな金切り声。
香水のきつい匂いを漂わせながら店内に乱入してきたのは、怒りで般若のように顔を歪ませた美香だった。




